荒波が岩肌を叩き、潮風が頬を掠める。





「…ここは…」





私が降り立った場所は、列岩地帯のど真ん中。

洞窟へと繋がるその道の先からは
焼きたてのパンと、あの子達が好きな貝の香りがする。

この先はモフモフ族の村。
ならきっと、あの人もすぐ近くにいるはずだ。





「ジェ―――…」





頭の中に浮かんだ名前を口にしたと同時
すぐ近くから何かがカラン、と落ちる音がする。

音に導かれた私の視界には、一本の苦無。
そこから辿るよう視線を上げれば、細い足、鮮やかな衣服、鈴、それから―――…。





「ジェイ…!」
「…」
「嘘!ドンピシャ!凄い!!」





まさか想っただけでこんな近くに出てこれるなんてと騒ぐ私の前で
ジェイは落ちた苦無を拾おうとも、その足を動かそうともしない。

見開かれた瞳で私を見つめて、ただ呆然と立ち尽くすだけ。





「ジェイ?おーい」
「…」
「どうしたの?お腹痛い?それともお腹減った?」
「……ない」
「へ?」





「知らない」





たった一言、上機嫌な私に放たれた言葉は酷く冷たいものだった。





「あの…ジェイ」
「知らない」
「ち、ちょっと…何言ってるの?」
「知らない」





「貴女なんか、知らない」





心臓が止まった。
息をするのが苦しくなり、眉を顰める。

ジェイは胸を押さえる私の横を通り過ぎ、モフモフ族の村へと歩を進めた。

何それ。
私は、この鼻を掠める香水の香りまで覚えていたのに。





「ま、待って!!」





離れていく背中に手を伸ばし声を掛けても
ジェイは振り向きも、止まってくれさえもしなかった。





「ジェイ、待って!待ってよ!」
「…」
「忘れたなんて嘘だよね…!?」
「……」
「だってジェイ、記憶力良いじゃん…!」





遠ざかる彼の背中を追って、久しく動かしていなかった足で地面を蹴る。
ジェイは歩いていて私は走っている…なのにどうして、距離が縮まらないんだろう。





「やだ、ジェイ―――ッ!?」





ああ、全く運動をしていなかったからだろうか。

ほんの数センチの小石に躓き、体が前のめりに倒れる。

あちこち摩って血が滲む。
小石にすら勝てない自分の無力さを恨めしく思い拳を握った。





「い、たた…」





だけど不幸中の幸いと言うものはあるものだ。
私が転んだ事に気付き、ジェイが足を止めたのだ。

それでもジェイは振り向こうともしなければ私に駆け寄ろうともしない。
戦いの前夜、私を階段から突き落とした時は駆け寄り懸命に声を掛けてくれたのに。

…本当に、忘れちゃったの?

たくさん喧嘩して、たくさん笑い合って。
私の胸の中には、こんなにもジェイとの想い出が溢れているのに。





「私、だよ…」

だよ」





モフモフ族の村の入口で、私の声が反響する。
数メートル先にいるジェイは髪先を微かに揺らすだけで、ずっと同じ姿勢を保っていた。





「覚えて、ないの…?」





声が掠れる。
喉を潤そうにも、何かが引っ掛かって上手く出来ない。

私、このまま息が止まりそうだ。





「…っだよ…」





酷く怖かった。

“ジェイが私を忘れた”
そう思うだけで意識が飛びそうだった。

今の私、きっと傍から見たら凄いうざい。
女々しくて、やだやだと泣いて、まるで子供みたい。

でも、言葉を止めるにはもう手遅れだ。





「ッ私、忘れられちゃう程影薄くなかったよ…!」
「…」
「たくさん喧嘩して、たくさん笑ったじゃん…!」
「……」
「…何で、忘れちゃったんだよ…!」
「ッ、」





「忘れて欲しくないなら、勝手にいなくなるなよッ!!」





鼓膜が破れるくらいの大きな音。
ビクリと体を揺らした拍子に、いつの間にか溜まっていた涙が落ちた。

ハアッ、と荒い息を吐き、ジェイは肩を震わせる。
その背中はいつもより小さく見えた。





「っ…何で今更、来るんですか…!」
「…」
「散々人の事振り回しておいて、急に消えて…!」
「……」
「もう会う事もないと思ってたのに、突然帰ってきて…っ!」





「ッなのに、何でそんな泣きそうな声出すんだよ…!」

「泣いて戻ってくるぐらいなら、初めからいなくならなければ良いだろッ…!?」





ゆっくりと立ち上がり、足を引き摺りながら少年へと近付く。

震える肩にソッと手を伸ばせば、ジェイは私の気配を察知し振り払う。
乾いた音が反響し、拒絶された事が悲しくて涙がボロボロと溢れた。

…だけど、今は自分の涙を拭うよりも気になる事がある。





「ジェイ、泣いてるの…?」





問うた刹那、ジェイの体が大きく跳ねて
地面に透明な雫を落とした。

嗚咽を堪える弱々しい息。
それは私が良く知っているジェイの姿だ。

強くて、時に残酷で、人一倍責任感があって。
優しくて、弱くて、誰かに頼る事を躊躇うジェイ。





「私が帰ってきて嫌だった…?」





首を横に振る。





「っ私、迷惑だった…?」





戸惑いを見せて、横に振る。





「…戻ってきても、良かったッ…?」





小さく、本当に小さく頷く。
ここへ来て初めて彼が私を肯定したんだ。





「っ…う…」
「…?」
「うう…っく…」
「…さん?」





嗚咽を堪える事も出来ないくらい胸が苦しい。
子供のように泣きじゃくり、涙でぐしゃぐしゃになった顔を強く擦る。

まるでプツリ、と糸が切れたみたいに
溜め込んでいた物を全てジェイにぶつけた。

受け止めてもらえるかどうかとか、そんな事を考える余裕もなかったんだ。





「じゃあ、何で初めから『おかえり』って言ってくれないの!」
「だって、いなくなった人間がそう簡単に帰ってくるなんておかしいじゃないですか…!」
「でも私だってすぐに分かるじゃん!」
「変装が得意な忍だっているんですよ!」
「何それ…!知らないって言われた私の気も知らないで!」
「なっ…貴女、まるでさっきから僕が悪いみたいに…!」
「ジェイが悪いよ!!」





「私を生かす存在だって、ジェイが言ったのに!」















わんわん泣く彼女に「五月蠅い」と一喝しようとした時
その濡れた唇から思ってもいなかった言葉が紡がれる。





「だから一番最初に、ジェイのとこにきたのにッ…!」





グズグズ、品の欠片もない泣き方をするさんに
僕はいつの間にか言い返す言葉がなくなっていた。

正確には、言い返す言葉を選んでいる暇がなくなったのだ。





「確かに言いましたけど…あれは一時的にで…」
「一時的な訳ない!」
「…」
「ッ私がどれだけあの言葉を大事にしてたと思ってるんだよ…!」





「…生きる意味が何だって良いなら、少しでも希望の見える意味が欲しいならっ…」

「僕の為に生きて下さい…!」





「ジェイはその場しのぎで言った言葉かもしれないけど!」





それこそ、そんな訳がない。





「私にとっては凄く大事で…だから生きたいって思えたのに…!」





「貴女が死んで、生きる意味を見失う者だっているんだ…!」

「だからどうか、死にたいなんて言わないで下さい…!
 僕が貴女を生かす存在に、なってみますから…!」





「ジェイがいないと、私がなくなっちゃうから!」





「ッ今ここに貴女がいてくれなきゃ、僕も生きている意味がない…!!」





「ッだから、生きて帰ってきたのに…!」





品のない、グシャグシャになった顔。
だけどその大きな瞳から零れる涙はとても綺麗で、透き通っていて。





さ―――…」

「っなのに『知らない』って…『知らない』って何だよ!!」

「…」

「何?一時的なもの?そう思ってたならもっと早く言ってよ!勘違いして惨めな思いする前にさ!」

「……」

「大体、ジェイはいつも意地悪くて見栄っ張りで、優しくしてくれたと思ったらすぐに睨んだり!」

「…」

「アンタはそうやって私の慌てる姿見て満足してるかもしれないけど
 こっちはストレス溜まるんだよ!いつもいつもそうやって―――…」

「…さん?」

「……はっ」





顔面蒼白とは、正にこの事だろう。

フ、と目を細めてみせれば
真っ赤だったさんの顔が見る見る蒼白くなっていく。

不自然な程に白い彼女は僕の笑みにつられるようぎこちなく笑った。

彼女が良く見せる、「ヤバイ、とにかく笑っておこう」と言う
あの不恰好でおかしな笑顔だ。





さん」
「は、はい…!」





でも、その笑顔すら愛しい。

彼女に感化され僕もおかしくなってしまった。
さっきまであんなに罵倒されていたのに、こんな温かい気持ちになるなんて。





「…一時的じゃ、ないですよ」
「へ?」





小首を傾げる仕草も、くりっとした丸い瞳も。





「生きている意味が、なかったんです」





真剣に考えるその姿も。
中々答えが出てこない、少し弱い頭も。





「僕、一週間食事を摂っていないんですよ」





「嘘!」と言わんばかりに見開く瞳も
何もないくせに必死にポケットを探って食材を見つけようとする所も。





「…食事を摂りたくないと体が拒絶していたのもありますが」

「貴女がいない世界にいるくらいなら、もう死んでも良かったんです」

「…だって、僕の存在意義がなかったんですもの」





ポカンと口を開けた後、顔を赤くし慌てて耳を隠す仕草も。
もう、全部、全部、見逃さない。





「…お腹、空いたなあ」
「っへ…?」
「何か食べなきゃ死にそうだ」
「え、う…うそ!村!村に言って何か食べて―――ッ!?」





声を上げ村へ行こうとするその体をグッと引っ張る。

「わっ!?」と突然の事に声を上げたさんは
抵抗する間もなく僕の胸へと納まった。

ああ、どうして僕はこのぬくもりを手放そうとしていたんだろう。

「何するの!」と叫ぼうとするその唇にそっと手を当てれば
彼女の見開かれた瞳に僕の満足そうな笑みが映っていた。





「ねえ、さん」





黒い髪をそっと撫で、絡め、触る。





「僕、さんがいなくてとっても寂しかったんです」
「え…」
「食事も喉に通らないし、キュッポ達に心配ばかりかけてしまって」
「…」
「おまけに仕事も捗らなくて…」
「そ、それは嘘だ…!」
「…でも、凄く寂しかったんです」
「し、仕切り直さないでよそんな笑顔で…!」





さんは僕の手を弾き、キッと眉を吊り上げた。
僕を睨む瞳は未だに涙で潤んでいて、恥ずかしいのか顔を真っ赤にしている。

素直じゃない彼女の本心をその口から聞きたくて、
僕はいつも意地悪をしてしまうんだ。





「…責任、とって下さいよ」
「は…?」
「もう、勝手に消えないで下さい」





「…傍にいてくれるだけで良い」





もう身勝手な我儘で貴女を泣かせたりはしないから。
そう口には出さなかったが、細い身を力強く抱き締めた。

「え」、だの「あ」、だの声を上げるさんの胸からはドクドクと心臓の音が聞こえる。

いいや、彼女の心臓の音だけじゃない。
僕自身の鼓動もさんと同じ速度で鳴っている。





「あ、あの、ジェイ…」
「答えないと離さない」
「え、え…」





否定の言葉を聞くのが怖くてこんな風に追い詰める事しか出来ない。

本当は彼女を見た瞬間にこうして抱き締めたかったと言ったら
きっとノーマさんやモーゼスさんに笑われるだろう。

結局僕は自分の事ばかりで、どうしようもなく弱い人間だ。

でも、こうしてでも彼女を離したくないと思った。
もう、一生、死ぬまで…生きてる間、ずっと。





「…さ、さっき言ったよ…」





弱々しい声を発したと同時、彼女は震える手でボクの服を掴む。





「出来れば、ずっと、これからも…ジェイには離して欲しくない…かも」

「だって…ジェイの為に戻って来たんだから」





僕を窺うその瞳は泣いていた時よりも潤んでいて、
顔も林檎のように真っ赤だった。

僕より必死に言葉を紡いで
僕より必死に他人を求めて、僕を必要としてくれて。





「…ええ」





こんなにも自然に笑う事が出来るのは、きっと彼女の前だからなのだろう。





「当たり前じゃないですか…」

「もう、離したりしないですよ」





今ならきっと、胸を張って言えるだろう。

大事な家族がいる事。
守りたい人がいる事。

それに―――…。





「僕は、さんの為に生きてるんですから…」





愛する人がいる事も。










...
14/01/27