「カワイコちゃんに“先生”って言われてえ…」
沈黙が広がる部屋の中、雨音のようにその言葉は地へ落ちた。
「…“ししょー”で充分じゃない?」
「馬鹿野郎!“先生”と“ししょー”じゃ胸のときめきが違うだろ!」
「贅沢…そもそもアンタ先生じゃないじゃん」
「先生になれるチャンスはいくらでもあったがならなかっただけだ」
ニヤリと笑い眼鏡を上げる姿からは知性の欠片も感じられない。
そう思うのは私がこの男…スヴェンと長くいすぎたせいだろうか。
初対面であれば少しは格好良いと思えるのだろうが
今や出てくるのは呆れた言葉と溜め息ばかり。
「、試しに呼んでくれよ」
「えー…嫌だよ」
「減るもんじゃないし良いだろ?ほれほれ!」
「…」
対面で耳を傾け言葉を催促する男はまるで少年のような瞳をしている。
キラキラと光を飛ばし、どちらが年上か分からなくなりそうだ。
「…先生」
負けを認めたのは私だ。
眼差しに耐えきれず男が求める言葉を奏でる。
久しく発していなかった単語はこの場に不釣り合いで、何だか少しもやもやとした。
「…」
「…」
「…ちょっと」
もやもやしているのは私だけじゃないのか、言いようのない沈黙が流れる。
ああ…こうなるのが予想出来ていたから嫌だったのだ。
スヴェンから見れば私はカワイコちゃんでも何でもない、
ただこうしてぐーたら過ごしていても咎めない都合の良い女程度だろう。
そんな女に“先生”と呼ばれて喜ぶ男が何処にいようか。
「洗面所ならあっちだよ」
「はあ?洗面所?」
「いや、気分が悪いなら顔でも洗ってきたらどうかなって」
「え、ああ…いや、気分は悪くない。むしろ逆だ」
「…逆?」
「ちょっとだけグッときた」
口元を手で覆い、不自然に眉を顰める仕草の何処がグッときているのだろうか。
私から見れば吐く寸前にしか見えない。
「いや〜!たまんねーな、先生って!」
「そんなに呼ばれたいなら、本当に先生になれば良かったのに」
「当時は夢とロマンの方が大事だったんだよ!」
「ふーん」
「だから今まで呼ばれなかった分、が呼んでくれ」
スラスラと冗談のような事を本気で言う、スヴェンと言う男はこう言う男だ。
突拍子の無い事を言われるのにももう慣れた。
そしてそれに嫌だと言いながら付き合うのも。
「スヴェン先生は私に何を教えてくれるの?」
「何でも聞け!少なくともお前よりは博識だからな!」
「本当かなあ…」
自信満々に腕を組んで立ち上がる男に疑いの眼差しを向ければ
何かを催促するかのようにほれほれと手を動かす。
お題を出せ、と言われても咄嗟には出てこない。
まあ、元々真剣な質問をしようなんて考えていないけど。
「…じゃあ、先生!」
「おうよ!」
「先生の恋愛話、聞かせて!」
別に深い意味はない、ただ何となく気になったのだ。
エバーライトを追い求めていたその瞳が、一度でも女に向いた事があったのか。
向いた事があるならば、それはお宝よりも価値のあるものだったのか。
「どんな人が好きだったの?」
「好きだった…と言うか、現在進行形だな」
「嘘!?何それ素敵!どんな人どんな人?」
「…お前の良く知ってる奴だよ」
「も、もしかしてノーマ!?」
「ちげえ!誰があんなちんちくりん何か好きになるか!」
「アイツは弟子であってそれ以上でも以下でもない」とスヴェンは言う。
その必死さに照れ隠しかと勘繰ってみたが、どうやら本当にノーマは恋愛対象外のようだ。
「…でも、ノーマと同じちんちくりんだ」
「?」
「馬鹿で、阿呆で、どうしようもない奴」
「へー」
「でも長い事いても嫌になんねーって言うか…もっと知りたくなるんだ」
「元々探究心が人一倍あるしな」と言い一人頷く男につられ私も頷く。
ボロクソ言われているけど、その女性は相当愛されているのだろう。
こんなにも輝いた顔を見せるスヴェンは私ですら数回しか見た事ない。
「くだらない言い合いして喧嘩っぽくなる事もあるけどな」
「でも、喧嘩するくらい仲良いんだね!」
「ああ、さっきも結構気まずい空気だったんだぜ」
「へえ」
「俺が“先生って呼べ”って言ったら、すっげえ顔歪めてさ」
「へ…え?」
「ま、嫌々言いつつ結局呼んでくれるんだけどな」
ギシリ、とソファが沈み顔に影がかかる。
反射するレンズの先にある瞳には私の呆けた顔がくっきりと映っていた。
「んでさ〜、その女が馬鹿な事馬鹿な事!」
「…」
「好きな女に“先生”って呼ばれて興奮する男がいないとか思っちゃっててさ」
「…」
「警戒心がないっつーか女としての自覚がないっつーか…そこが最高なんだけど」
「…あの、スヴェン」
相手の指先が頬を掠め、ピクリと体が跳ねる。
男はそんな私の反応を見ると満足そうに目を細め
声を出さず、「今の良い」と口だけを動かした。
「ち、ちょっと…スヴェン…」
「…先生だろ」
「せ、先生…」
「何?」
「あの…その…スヴェ…先生が好きなのって」
「もしかして私?」と繋げようとした唇が塞がれる。
柔らかく生暖かいソレが相手の唇だと分かるのに、そう時間はかからなかった。
空へ吐き出そうとした言葉はそのまま喉を通り体の中へと戻っていく。
聞くタイミングを逃し、何度も何度も唇を重ねる行為が続いて
欲しい言葉はいつまで経ってもこの耳に届かない。
ああ、どうして大人はズルをするのだろう。
まるで真実から逃げるよう、こんなにも強く私の肩を掴んで捕まえて。
私の答えはとっくのとうに決まっているのに。
先生、質問に答えて
16/03/16