魔物は以前の姿を取り戻す。
辺りを舞う霧は、まるで黒い雪のようだった。

ゆったりと落ちてくるそれを掌に乗せれば、皮膚に溶け込むように消えていく。

一粒消えれば、また一粒が落ちてきて
部屋に充満する霧は全て私へ向かって降り注ぎ、消えていった。

…と、こんな事をしている場合ではない。





「ウィル、これ?」
「ん…ああ、それだ」





未だに私が霧を吸い込む事が信じられないのか、
ウィルは心ここに在らず、と言った感じだった。

黒い海の上に浮くマユを私はひょいっと手で摘まむ。
クモのマユと言うものを手で触ったのは、記憶にある限りでは初めてだ。

だからと言って大した感想も浮かばない。
とにかく珍しい体験が出来た、とだけ思っておこう。





「お前に持たせてると不安だ、俺が持つ」
「よろしく!」





ウィルの手の上にマユを乗せる。

「そう自信満々に渡されてもな…」と呆れた溜め息を零しながら
ウィルはマユをそっと布で包み、鞄へ入れた。





「それにしても、また黒い霧ですか…」
「最近、見かける事が多くなったな」





あれだけ霧が充満していた部屋も、今ではうっすら空気が汚れている程度になっていた。

「でも気にならないね」、と軽い感想を零せば
何故か仲間達の視線は私に集まり、何事かと小首を傾げる。




「何か異変はないのか?」
「へ?」
「その…霧は危険だし…」





言葉を濁すセネルに私は「ああ!」と手を叩く。
そしてセネルの言いたい事を理解した上で、私は笑顔を向けた。





「問題なし!」





何も変わってないよ、と軽くターンをしてみせれば
皆はホッと安堵の息を零して笑う。

何度大丈夫だと言っても皆は私を心配してくれる。
だけど決して煩わしくはない、むしろ有難いくらいだ。





「霧の事も気になるが、今はエルザの事を考えよう」
「そうですね。急いで街に戻りましょう」
「よっし!モーゼス勝負!!」
「オウ!」





ダッと走り出す私の後を追うようにモーゼスも走り出す。
行きに来た道と同じルートを辿り、今度はモニュメントの外を目指した。

私はとにかく走った。
走って走って、急いで街を目指した。

もう、誰も手遅れにさせない。
エルザも、クロエも。










「…何か、違和感を覚えますね」
「ん?」





走るさんの姿を見た時
「ああ、五月蠅いくらいに元気だ」と思う前に不自然だと感じた。





「エルザさんの為に早く戻るのは良い事ですが、あまりに急ぎすぎじゃありませんか?」





きょとんとするセネルさんの瞳は、常に彼女を信じて疑おうとしない。
これだから…と言う想いは自分の内に留めておきながら、小さく息を吐いた。





「僕達を置いてあの人が突っ走る時、何か良い事ってありましたっけ?」





そう、いつもそうだ。

元気いっぱいに走り回っているかと思えば
次に顔を合わせた時には壊れそうな程体を震わせ怯えている。

元気がない訳じゃない。
彼女の声色に嘘はない。

だけど何か焦っている。
だから自分自身すらも誤魔化そうとあんなにはしゃいでいるのだ。





「間違いなく、何か仕出かしますね…」





「それも、近い未来に」、そう感じたのは僕の憶測でしかないが
今まで彼女を見てきた上での、根拠のある意見だった。















「とうちゃーく!」





とか元気に言ってみたけど、実際体はヘトヘト。
こんなに走ったのはいつ振りだろう、足の裏が地面に着く度ジーンとする。

後ろからヨロヨロついてくるモーゼスも相当足腰にきているようだ。
「おじさん」、とからかってみると「うっさい」と一言だけ返ってくる。

普段はもっと言い合う私達だが、さすがにそんな余裕はない。





「随分と急いだがもう夜か」





後ろからついて来た仲間達の中、ウィルがポツリと言葉を零す。

それにつられるよう顔を上げれば、丸い月が私達を照らしていた。
昨日と変わらない、少し肌寒いいつもの夜だ。





「それじゃ、もうひとっ走り!」
「まだ走るんかい!」
「勿論!エルザが心配だもん!」





そう言ったものの、心の中はちょっと違う。

エルザが心配、それに間違いはない。
早く助けてあげなきゃって気持ちも変わっていない。

でも、私には別にやらなきゃいけない事がある。

一体、どうすれば良いんだろう。
私に何が出来るんだろう。

ただ走って、急いで、一体何が変わったのだろうか。















「皆、遅いよ!」





病院の二階へと駆け上ると、濡れたタオルを持つハリエットの姿があった。

バタバタと駆ける私を見て病院の人達は皆迷惑そうだった。
病院内で騒いではいけない、と言う常識を忘れてしまう程私は焦っていた。





「オルコットさんは戻ってるか?」
「ううん、まだ…」





廊下で出会ったハリエットにセネルが小声で問う。
ハリエットは一度目を伏せると複雑な表情をし首を横に振った。





「あ、そうだ。手紙、預かったの」





ハリエットはエプロンのポケットから白い紙を取り出しウィルの手に乗せた。
私はそれを目で追い、ハッと我に返る。

やる事は決まっていた。
だけどどうすればそれを出来るかまでは考えていなかった。

いや、考えていなかったけどたった今思いついた。





「オルコットさんからか?」
「うん、パパに渡してくれって」





手紙だ。





「こっちの手紙はクロエにだって」
「私に…?」





渡された手紙を二人は同時に開き、目を動かす。
最初に声を上げたのはウィルだった。





「これは…!エルザの治療薬の調合方法か…!」
「そんな…オルコットさんは一体どうしてそんな物を…」





驚きを隠せず言葉を零すウィルとシャーリィの後ろをそっと移動し
ただその場を眺め動向を見守る少年にゆっくりと近付く。





「あ〜!クーってば!どうして手紙握り潰すの!!」





クロエは爪が白くなる程の強い力で、オルコットさんからもらった手紙を握り潰した。
グシャリと音がした時、私の足も一度止まる。





「っ私の事はどうでも良い。今はエルザの事を考えるんだ…」





血色の悪い唇から零れる言葉は震えていた。
それでも皆に気付かれないようにと、必死に自分の気持ちを抑えている。

もう、見てられない。





「…クロエの言う通りだな、今はエルザが優先だ」
「でも薬の調合方法は分かっても材料が揃わないんじゃ…」
「体力だけでもブレスで回復出来んかの?」
「あぁ、その手がありましたね」





珍しく冴えているモーゼスにジェイは納得の言葉を漏らす。

確かに、と他の仲間も一つ頷き
廊下の奥にあるエルザの部屋へと足を進めた。





「っちょっと!!」
「うわ!」





数人が部屋の中へ入った時、私は一人の少年の腕を引っ張った。
引っ張る、と言うよりも振り回す、の方が正しかったかもしれない。

私は私でジェイが大きな声を出すと思っておらず、呼び止めた側のくせに体が跳ねた。





「何ですか…!こんな緊急事態に…」
「私も!私も緊急事態なの!」
「…はあ?」





訳が分からん、と顔を顰めるジェイ。
そして私達の声を聞き振り返る仲間達。

しまった、と思い手で口を覆った時には時既に遅く、皆の視線は私に注がれていた。





「緊急事態って…何かあったのか?」
「まさかお前、さっきの霧で何か症状が…!」
「ち、違う違う!そう言う意味じゃなくて!!」





先走る仲間達の言葉を遮りブンブンと勢い良く手を振る。

とにかくこの状況を変えなければ、と隣にいるジェイに腕を絡め
半ば無理矢理引っ張り、皆のいる方向とは反対に歩を進めた。





「ジェイ、お借りします!」





そう言ってエルザのいる部屋の隣、クロエが借りている部屋へとジェイを連れ込む。
クロエもまさか私が自分の部屋に入ると思っていなかったのか、驚き目を見開いていた。





「オイ!借りるって一体…」
「とにかく何でも!」
「何でも、って…」
「あ、別に部屋を荒らしたりしないから安心して!」





部屋の主の許可も取らず体の半分を部屋にいれ
ドアからひょっこり顔を出し、乱暴に言葉を投げた。

もしここで部屋に鍵が掛かっていたら私はどうしていたのだろう。
と、開いた今考えた所でどうでも良い事だ。





「後、盗み聞き、盗み見、勝手に入ってくるの禁止!」





バン、と強い力で扉を閉め、ガチャリと音を立て鍵を掛ける。

細心の注意を、と閉めた扉に耳を当てた。
仲間達は私の行動に疑問を感じながらもエルザの部屋へと入っていったようだ。

隣の部屋から微かな物音がする。
幸い壁が厚いのか、お互いの会話の内容までは聞こえない。

シン、と静まり返る部屋の中カタンと音が鳴る。





「それで?」





暗い部屋の中月を背にし、私を真っ直ぐ見るジェイは無表情だった。
呼び止めた時はあんなに驚いていたのに、今はいつも通り冷静である。

私は部屋の中央に立つジェイの横を通り過ぎ、端に置かれた机へと近付く。
問答無用で引き出しを開け、灯りも付けずに指先だけである物を二つ探した。





「部屋、荒らさないんじゃなかったんですか?」
「それどころじゃないんだよ!」





八つ当たりにも近い荒い声で返事をし、私は目的の物を机の上に広げた。

ダン、と音を立て、置いたのは一枚の白い紙とペン。
何事かと近付くジェイを無理矢理椅子に座らせて、その右手にペンを握らせた。





「…何です?これ」
「手紙、書いて欲しい」
「手紙…?」





突拍子もない私の願いにジェイは首を傾げる。
サラリと流れた髪が月に照らされ艶めき、美しいと感じた。










彼女が僕を部屋へ連れ込み、頼んだ事と言えば
手紙を書いて欲しいと言う事だった。

何故このタイミングでと聞きたい事はたくさんあったが、彼女はとにかく僕を急く。

仕方ない、と溜め息を吐き足を組んだ。
ここまで来たら付き合わないとどんな目に合うか分からない。





「…誰宛てですか?」
「クロエ」





滑らせようとしたペンがピタリと止まった。

僕の聞き間違いだったのだろうか。
いや、こんなに静かな部屋でこんなに近くにいる彼女の言葉を聞き間違える訳がない。





「クロエさん…ですか?」
「うん」
「…そんなの、直接言えば良いじゃないですか」





すぐ隣にいる相手にどうして手紙なんか、と疑問符を浮かべる僕に向かって
さんはゆっくりと首を振る。





「クロエはきっと、聞いたら怒る…それでもやりたい事があるの」
「…」
「その為には、手紙が一番良いって思ったんだ」





目線の先、スカートを強く握る彼女の手は震えていた。
目を見ていても分かるが、それなりの覚悟があるのだろう。

だがその言葉はまるで子供の言い訳だ。
徐々に小さくなる彼女の言葉に決意はあっても自信がない。





「…クロエさんが聞いて怒る内容の手紙を
 僕が聞いて怒らないと思っているんですか?」





自信がない理由は、これだろう。

正解だ、と言わんばかりにビクリと跳ねる肩。
微かに見開かれた目はすぐに視線を逸らし、大きく揺れる。


やっぱり何かしようとしてる。
それも僕達が良いと思わない事をだ。


ならばこれ以上協力するのは無理だとペンを置こうとすれば
さんは「ジェイ」と小さく僕の名前を呼んだ。

小さく、だけどハッキリと。





「私が喋る事、何も言わずに書いて」
「…だから」
「途中で文句言わないで、途中で書くの止めないで」





「どんな言葉でも一語一句漏らさないで…私の気持ち、全部クロエに伝えたいの」





今にも泣きそうな程瞳を潤ませるさんは
この夜のせいか、とても弱々しく見えた。





「…内容によりますよ。手紙を書いた後何もせずに貴女を放っておくなんて―――…」
「お願いっ…!!」





言葉が止まる。
何かが喉に突っかかり、息をするのも苦しくなった。

正直、驚いた。

普段何も考えずにへらへら笑っているさんが
僕に向かって、深く深く、頭を下げている。





「ジェイが、一番分かってくれると思ったの…!」





何を。





「ジェイなら、やってくれると思ったから…!」





それは僕が他の人と違い、冷酷で残虐な人間だからだろうか。
それならやはり、彼女は何も分かっていない。

僕が貴女を心配しない程心無い人間だと、本気で思っているのか?





「ジェイ、お願いだよ…!」
「…」
「っ急がなきゃ、間に合わない…!!」





目の前で膝を着き、僕の服を掴み懇願する彼女を見下ろした。
潤む瞳は月に照らされ、何だかとても綺麗で、滑稽に見えた。

そうやって、僕が断れない状況を無意識に作るのがさんなのだ。





「結局僕は、こんな事でしか役に立てないのか…」





嘲笑の混ざる僕の言葉にさんは瞳を丸くする。
僕はそんな彼女を見て、心を殺しペンを握った。





「あまり過激な内容は寄越さないで下さいよ」





そう言って文頭にクロエさんの名前を綴れば
読めてないはずの彼女は嬉しそうに瞳を輝かせ。





「ありがとう!」





僕に満面の笑みを向けた。





ペンを滑らせる度、手が震えを増す。

まるで歌うかのように、滑らかに言葉を紡ぐ彼女の決意に
僕は唇を噛み締めた。










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修正:14/01/08