モーゼスさんは迷いのない笑みを浮かべ、前だけを見つめていた。
「一度は同じ笑顔をさんにも見せた癖に」と僕が突っ込めば
「惚れた女に弱味は見せとうないんじゃ」と歯を見せ笑う。
理解し難いプライドに顔を顰める僕を笑い飛ばすと
モーゼスさんはピタリと、ある部屋の前で足を止めた。
「この奥じゃの」
野生の勘か、それとも長年連れ添ったガルフの気配を辿ってか。
モーゼスさんはいくつもある扉から迷いもせず一つを選ぶ。
そしてその大きな手でゆっくりと、扉を開いた。
扉の奥に、ギートはいた。
僕達の気配に気付いていないのか、体を横にして動かない。
寛いでいるのだろうか…いや、何だか様子がおかしい。
「ギート…?」
違和感を覚えたのは僕だけではないようだ。
モーゼスさんも相当戸惑っている。
ギートはピクンと耳を動かし、ゆっくりと立ち上がった。
だけどその体を僕達に向ける事はない。
在ろう事か、自分の体を目の前の壁に向かって叩きつけたのだ。
「ち、ちょっと…!ギーとん傷だらけじゃん…!」
「ワレ…!その傷、自分でやったんか…!?」
ノーマさんの言う通り、ギートの体は血塗れだ。
彼が横になっていた床にも血溜まりが出来る程の出血。
それでも動けているのはさすがグランドガルフ、と言うべきなのだろうか。
ただどうしても、頭の良いギートがそんな事をする理由が思い浮かばない。
「モーゼスを手に掛けるくらいなら、自ら死を選ぶというのか…?」
ウィルさんの言葉に、僕は冷静にも「ああ、そうか」と心の中で呟いた。
頭が良いギートだからこそ、こんな行動をしているのだろう。
驚き見開かれたモーゼスさんの瞳には
何度も何度も壁へぶつかり崩れるギートの姿が映っている。
「ッ止めるんじゃ、ギート!!」
そして、自らを傷付ける友の姿に耐えきれず、叫んだ。
モーゼスさんの声を聞き、ギートはピタリと足を止める。
そしてゆっくりとその虚ろな瞳をこちらに向けた。
その瞬間、場の空気が変わった気がした。
虚ろな瞳は突如鋭くなり、獲物を狙う物へと変わる。
グルグルと唸りだし、牙を覗かせるその姿に僕達は一歩後退した。
「人が近付けば野性の血が牙を剥く、か…救いがないな…」
剣を構えるクロエさんの言葉を聞き、僕も自らのポケットに入っている苦無を握り締めた。
一番信頼しているモーゼスさんの声すら、その心には届かなかったんだ。
きっともう、何もかもが手遅れなのだろう。
「…ギートの気持ちはよう分かった…」
だけどモーゼスさんは僕達とは反対に、一歩前へと歩を進めた。
「ワイらの気持ちは一緒なんじゃ…苦しむのは、もう止めじゃ」
一歩、また一歩と近付き、徐々にギートとの距離を縮めていく。
「もうええ…ギートはよう頑張った」
柔らかい主人の笑顔に、ギートは何を思ったのだろう。
鋭い牙は、一瞬だけ血の味を忘れ
地を踏み締める爪は、標的を失った。
その瞳にも光が戻る。
モーゼスさんを慕っていた、あの頃のギートの瞳だ。
…―――沸き立つ血の渇きに、抗う必要はない…。
「…!?」
突如聞こえた女性の声。
一度は気のせいかと思ったが、そうではないらしい。
部屋の中に霧が生まれる。
何処からともなく湧き立つ霧は、一瞬で部屋を黒く染めた。
「…そうか…!」
女性の声が何処から聞こえたのかは分からない。
だけど別の答えが僕の中で生まれる。
「ギートの野生化の原因は黒い霧です…!」
「んなもん見りゃ分かるわ!!」
「話は最後まで聞いて下さいよ!」
焦るモーゼスさんを制止した僕の声も焦っていた。
だけどこの事実、伝えておかなければ僕自身が後悔する。
「原因が黒い霧ならば、霧さえなくなればギートは元に戻る」
「だから霧を吸い取る事の出来るさんの前だけでは
あんなにも懐き体を寄せていたんですよ!」
返事は聞こえなかったけど、皆さんが驚いているのは空気で分かった。
否定する者は誰一人としていない。
それ所か僕と同様に、全てが繋がったと強く頷き武器を構えた。
「じゃあ、霧を取っ払っちゃえばギーとんも元通りって訳ね!」
「だったら尚更全力で行くぞ!!」
…―――その身を満たす衝動を感じよ。
…―――果たすべきは決まっている…。
…―――渇きに逆らうことなく吼えよ。
辺りに散らばっていた霧はギートの隣で凝縮を始める。
何事かと足を止めたセネルさんの前で
それは姿となり僕達の前に現れた。
ギートが想い描き続けていた、モーゼスさんとなって。
「霧がモーすけに、か!お決まりパターンでもう慣れちゃったよ!」
「オウ!ワイはまだ愛されちょるんじゃのう!!」
「ふざけずに前を見ろ!…来るぞ!」
今まで共に行動してきたギートへ、苦無を向ける事には抵抗があった。
それでも自分が危険だと分かれば体が勝手に動く。
言わば癖のようなものなのだろう。
「ギート、もうええんじゃ!ワレはよう頑張った!!」
モーゼスさんは戦いの中、幾度となくギートへ言葉を投げかけた。
それこそ、槍を投げるよりも多く、何度も何度も。
「そげなニセモン必要ない!よう見い!」
突進してくるギートを槍で受け止め、モーゼスさんは二カッと笑う。
「ここにおるワイを信じろ!」
ギリギリと槍を持つ手が震えている。
ハッキリ言って、モーゼスさんの力がもつのは後数秒だろう。
それでも、キツいはずなのにモーゼスさんはギートに向かって笑い続けた。
「ワイもギートを信じる!」
「だから、ワレもワイを信じるんじゃ!!」
「ワイはここにおる!ここにおるんじゃ!!」
見開かれたギートの瞳には、その笑顔がハッキリと映っていただろう。
槍を噛んでいたギートの口がソッと離れる。
二、三歩後退すると、ギートは申し訳なさそうにか細く鳴いた。
「…なんじゃ…相変わらず弱虫じゃのう」
そう言うと、モーゼスさんはギートを優しく、力強く包んだ。
ギートは目を閉じ、彼に全てを委ねる。
赤く光る彼の爪が突然七色に輝き出して
二人は光に包まれるととても柔らかい笑みを浮かべた。
光が止んだと同時、あれ程充満していた霧が消えていた。
ポツポツと浮かんでいた塵のような物も、空に向かって消えて行く。
空に、と言う点が少し引っ掛かるが
目の前で笑い合うモーゼスさんとギートを見ているとそれもどうでも良くなった。
「ギート!」
モーゼスさんが名前を呼ぶ。
ギートは元気良く吠える。
それは懐かしい、と思ってしまう程長い間見ていなかった
本来の二人の在り方だった。
らしくもなくつられて笑う僕の横で、セネルさんもクスリと笑う。
シャーリィさんは二人の姿を見て涙を流し震えていた。
「…これでギートの野生化も止まるな」
「やったね、モーすけ!!」
「…オウ!」
ノーマさんに向かってガッツポーズをした後
モーゼスさんはギートの毛をゆっくりと、優しく撫でた。
その笑顔が余りにも静かで、彼らしくないのを見て
僕は「良かった」と思うよりも先に「何かがおかしい」と思ってしまった。
…彼らしくなくなってしまう程、嬉しいと言う事なのか。
僕には分からない。
「それにしても、また霧ですか…随分と作為的なものを感じますね…」
「何者かの仕業であると考えるべきなのだろうな…」
「だけど、人にこんな真似が出来るのか?」
セネルさんの素朴な疑問に答える事は出来なかったけど
僕は今まで見たものを頭の中で整理しながら口を挟む。
「僕達の想像を超えたものだって、この世界には存在しますよ」
「滄我のような存在、か…?」
「飛躍した推論なのは、分かってますけど」
「この世界には存在しない、別の者なら…」
セネルさんの表情が大きく歪む。
いや、セネルさんだけではない…そこにいる全員が顔を強張らせた。
本当にこの人達は、何と言うか…。
よっぽど一人の女性が好きで好きで仕方がないらしい。
「…まさか、がやってるって言うんじゃないだろうな…?」
「この世界の常識を持つ僕達の想像を超えた事件が起きてるんですよ?」
「…」
「ならば他の世界の者が関与していると考えるのも普通でしょう」
僕の言葉を聞き、セネルさんは悔しそうに拳を握った。
僕はそんな彼の姿を見て、はあ、と溜め息を吐く。
勿論、僕だってこんな事信じたくない。
でも何故か、言葉では嘘を言ってしまうんだ。
まるで彼女を悪者にしたがるような言葉を。
「…結局彼女を、僕と同じ罪人にしたいだけなのか…」
「何か言ったか?」
「いえ、何でもありません」
余りにも馬鹿らしい見解を、他人に言う事なんて出来なかった。
本当、さんが絡むと調子が狂う僕が嫌になる。
「モーゼス!!」
…ああ、本当にタイミングが悪い。
調子を狂わせている張本人が、大きく開けた窓から登場するなんて。
霧の残留が空に流れているのも納得出来た。
そう思うと同時、ワルターさんに抱えられさんを見て
僕は一つ溜め息を吐いた。
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修正:14/01/12