フワリと届く甘い香りは、私を現実へと連れ戻す。
「っ…」
私…何をしてたんだっけ。
確か、忍者を探しに地下道まで来て、それで…。
…そうだ…あの後、私…。
「い、たた…!」
必死に記憶を辿る中、右肩に酷い激痛が走り声を上げた。
グジュ、と音を立て濡れた衣服を押さえつけるも逆効果。
広すぎる傷口に対し手を当てただけで痛みが治まる訳もなく
ただ何をしても痛みを誇張させるばかりだった。
「おや、目が覚めてしまいましたか…」
「……あ…」
声が聞こえた方へゆっくりと顔を上げれば
ジェイの肩に手を乗せる男が私に笑みを向けている。
男の近くで佇むジェイの表情は分からないものの
この異様な空気がどう言った経緯で出来上がったものなのか、私は知っている。
私の中にいる少女は恋焦がれる男を目の前に尻込みをする。
きっととてもシャイな子なのだろう。
ならば好都合だと、私は目の前にいる男を勢いよく睨み付けた。
「…離して」
「ほう?」
「ジェイ、離してよ」
私を見ながらも男はジェイの肩から手を離そうとしない。
それをキツく、これでもかと言う不機嫌な声で指摘する私を見て男は笑った。
「あぁ、これが気に食わないんですか?」
年に似合わない細く綺麗な手はスッと引かれる。
余りにも綺麗すぎるそれを見て私は気味が悪いと体を震わせた。
「離しますよ。もうジェイとの話が終わりましたから」
「…」
「今度は貴女と…二人きりで話す番です」
男は硬直し動かないジェイの耳元へ口を近付ける。
何をされても微動だにしないジェイ。
その体からは、微かに黒い霧が滲み出ているようにも見えた。
…いや、霧なんか見えなくてもジェイの今の心情は嫌と言う程分かる。
「ここで待っていろ。仲間が来たら連れて来い」
「…は、い」
久しぶりにすら感じるジェイの声。
まるで油が切れたみたいに、途切れ途切れに震えている。
「ッ話なら、ここでだって出来る!」
「聞かれて良い話とは限りませんよ?」
「はあ!?」
「貴女の性格を考えた上で、二人きりで話がしたいんですよ」
「…うそくさい」
「…やれやれ、私の優しさが分からないとは困ったモノだ…」
そんなもの、微塵もないくせに。
現に、私を奥へと連れ込もうと引っ張るその腕が
わざと切り傷のある右手を掴むのは何でだよ。
「っ…」
痛みに顔を歪める私を見て、楽しんでいるだけ。
人を痛めつけ悦に浸るのが、この男の正体なんだから。
陽の光の届かぬ道の奥。
「う、わ…!」
乱暴に腕を引っ張られ、体は重力に逆らえず前へと倒れる。
バランスを崩した体は相手の為すがまま。
大きな岩に叩きつけられ、痛みに悶える私の両側に手を付けられる。
ハッとした時にはもう遅く、瞳に映るのは男の顔。
逃げられない状況に私は一つ、汗を垂らした。
「取引だ」
「…?」
そこには別人のような冷たい表情を浮かべる男がいる。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、体が固くなり動かない。
「私の元へ来い」
「…は…?」
突拍子のない男の言葉に、つい間抜けな声が出た。
行く訳ない、そう口にしようとした時
頭の隅にいる破壊の少女は、パアッと目を潤ませ笑っている。
…ダメ。
例え破壊の少女の願いであっても、これだけは絶対に。
「行かない」
キッパリ言い放つ私に対して、男は口の端を吊り上げた。
まるで私が初めからそう答える事を分かっていたようだ。
「では、これでどうでしょう…」
「…なに?」
「貴女が私の元へ来てくれるのであれば、私もそれなりの対応をします」
「煌髪人のお嬢さん、野蛮なお仲間、遺跡船の住民…
誰一人、傷付けないと約束しても良いです」
男は私の答えを予想していたのだろうけど
私は男のこんな提案、予想する事も出来なかった。
ぽかんと口を開ける私を見、男はクッと喉を鳴らす。
「間抜けな表情も美しい…私のモノにしたい」
そう言って頬に触れた手を、私は条件反射で叩いていた。
きっと蚊を叩き落とすよりも素早く。
気持ち悪い、と思った。
それと同時に、堪え切れない恐怖を感じた。
「…嘘だ」
喉から絞り出た声を聞き、男は目を細め私を見つめる。
「ほう?」と不思議そうな声を上げると、私の答えを催促するように笑った。
「私、知ってるよ?」
「アンタ、ジェイには“メルネスを連れて来なきゃモフモフ族を殺す”って言ったんだろ」
逆にこっちがニタリと嫌らしく笑って見せれば、男は微かに動揺する。
目を見開く、と言うあからさまな態度はとらないものの
流れる空気が変わったのが私には分かった。
「…狸寝入りか?」
「女の勘」
大層不愉快だと言わんばかりのオーラを放つ相手は
余裕ぶる私に負けじと無理矢理笑う。
…いや、無理矢理だと思ったのは私の思い込みだったようだ。
「私はそんな事、一言もジェイには言っていませんよ」
クス、と人を小馬鹿にする嘲笑。
腹立たしいと思うと同時、私の知っている話と違う事にまず驚いた。
「私が本当に欲しいのは貴女…破壊の少女だ」
「私にとって、メスネス等薄汚い女…」
「なのにそんな事、わざわざジェイに頼むはずがないでしょう?」
…嘘に決まっている。
だって私が見た、私がやったゲームの世界でコイツは…。
「勘なんかに頼っているから、今までも碌な事がなかったんでしょうねぇ」
「なっ…!」
「それとも、その直感で私の頼みを断りますか?」
「そんな事をしたら大変な事態になってしまうでしょうねぇ…それはそれで楽しみですが…」
含みのある遠回しな言い方。
相手は人を焦らす術を心得ている。
人を騙す事すら満足に出来ない私には勝算等ない。
それでも、飲み込まれるのだけは絶対にあっては―――…。
「先程の交渉を断るなら」
…―――駄目、と思う私の耳元で、男は今まで以上に低い声で囁いた。
「貴女が言った通り、モフモフ族とやらを殺して
更に貴女の大事な仲間を殺したって良いんですよ…?」
体の熱が、声だけで奪われる。
逃げようにも四方を塞がれ体を動かす事も出来ない私は
せめて目線からだけでも逃れようと顔を反らす。
男はそんな私を見てただただ笑っていた。
「だから言ったでしょう?貴女の性格を理解した上での取引だと」
「っ…」
「仲間達にこんな事を聞かれたくないでしょう?仲間達を殺されたくないでしょう?」
「仲間が殺されるなら自分が死んででも守る…仲間を助ける為なら、自分を犠牲に…」
「お人好しの破壊の少女…お前の歩む道は決まっている」
男はそう言うと、私の横に置いていた手をスッと放した。
覆い被さっていた影が消えたと同時
男は私の目の前に手を差し伸べる。
その手を取れば、何もかもが終わると分かっていた。
馬鹿な私にだって、それくらいは理解出来た。
…だけど。
シャーリィやセネル、ウィルにクロエ。
ノーマ、モーゼス…ワルターとグリューネさん、モフモフ族の皆。
そして、私の中にいるもう一人の少女。
コイツの手を取るだけで、たくさんの人が救われる。
何も知らず、いつまでも笑っていられる。
たった一人…ジェイだけは私の事を許してくれないだろうけど
それでも、彼が安心した生活を大切な仲間と送る事が出来るなら。
…何も、悪い事はない。
「…止めて」
「おや…それはそれは、非常に残念だ」
「別に、手を取る必要なんてない」
「…」
「ッ…雪花の、遺跡…で…」
自分で言った事なのに、酷く腹が立った。
今すぐ目の前の男に拳を突きつけたいのに
コイツが後ろ盾にしているものは、私には大きすぎる。
場所の指定をする私に対して男は驚きの声を上げながらも特に突っ込みはしなかった。
大よそ、これも破壊の少女の能力の一部と考えているのだろう。
「っ…それで、ジェイは…!」
「?」
「ジェイには、何も言ってないんだろ…!?何も命令してないんだろ!?」
「…ええ、何も命令してませんよ」
「だったら、もうジェイの前に出ないでよ!これ以上ジェイを困らせないって約束して!」
懇願する私がそんなにも面白いのか、男は肩を震わせ息を漏らす。
次第に耐えきれなくなったのかクスクスと声が溢れ出て
数秒立つと耳を塞ぎたくなる程五月蠅く笑った。
何で、笑っているんだろう。
度を越したソレに対し、私は腹立たしく思うと同時に背筋が凍る。
嫌な予感、と言うのは鈍感な私にでも分かるものなのか、とこの時は思った。
「えぇ…私は何も命令をしていない…」
そして次の瞬間、絶望に叩き落された私の顔を見て
男は更に声を荒げ、叫ぶように笑うのだろう。
「何も命令はしていない…」
「だって私は―――…」
「…―――私は、“独り言”を言っただけですから…」
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修正:14/01/13