パァン、と余韻を残し消えた音の正体は、私が男の頬を引っ叩いたものだった。
「なに笑ってんだよ…!」
何も出来ず呆然としていた私は何処かへ消えた。
ただ私は、自らの体から殺意を垂れ流し相手を鋭く睨み付ける。
今なら、きっと出来る。
コイツ一人殺すくらい、容易く。
「アンタにジェイを笑う資格なんてない…ッ!!」
少し赤くなった頬を自らの指でなぞる男は
声を張り上げる私に酷く冷たい視線を向けた。
奥底では、これでもかと言う怒りの炎を宿しながら。
「ッアンタじゃなければ…!」
「…」
「ジェイを拾ったのがアンタじゃなければ、ジェイは幸せだったのに!!」
「アンタがジェイに普通の幸せをあげてれば、ジェイはこんな事望まなかった!」
「笑わせてんのはどっちだよ!元はと言えば、全部アンタが撒いた種だろ!!」
ハァ、と荒い息を零し、一度も目線を逸らさず吠える私を
男は黙って見つめていた。
何を言っても反応を示さない男に対し、体がまたカッと熱くなる。
返事くらいしろ、と言葉にするよりも先に、私はまた無表情な顔に手を振りかぶった。
「ッさん、駄目だ…!!」
逃げろと言わんばかりに声を上げたジェイを無視し
私は目の前の男の頬に自らの手を振り下ろす。
たけど、再び乾いた音が響く事はなかった。
「っ…!」
頬を殴る寸前、男に手首を掴まれ阻止される。
ギリギリと痛い程締められた手首は、互いの力の影響で震えていた。
「調子に乗るなよ、小娘が…」
男の声はとても低く、私の体から熱を奪う。
歯と歯の隙間から漏れた声は音にならず、零れて消えた。
「少しは自分の立場を言うものを考えろよ…」
「ッ、何を…!」
「私と交わした約束を忘れてしまいましたか?これだから無能な人間の相手は疲れる…」
「煌髪人のお嬢さん、野蛮なお仲間、遺跡船の住民…
誰一人、傷付けないと約束しても良いです」
脳裏を過る甘い香りと、男の言葉。
「刃向かうような真似をされると、貴女のお仲間に八つ当たりしたくなってくる…」
男は追い討ちをかけるよう私を脅し、試す。
私はギリ、と皮が切れるくらいに唇を噛み締めた。
「誰一人、手出さないって言ったくせに…!」
「?」
「ジェイを血だらけにしたのは誰だよ…!」
手首の痛みに耐えながら声を上げる。
人はここまで怒ると、痛み等二の次になるのだと知った。
「偉そうな事言って、何が約束だ!先に破ったのはそっちだろ!!」
私の大事な仲間をこんなになるまで傷付けて。
止めろと言った言葉すら無視し、愚かだと笑って。
約束一つ守らない男に対し、私は恐怖に呑み込まれていた怒りを思い出す。
なのに、どうして。
約束を守らない屑だと罵倒する私を見て、コイツは笑っているんだ。
「…いいえ、私は約束を破ってはいませんよ」
「な、…」
「“誰一人”と言うのは、人間を数える単位だ…」
「人殺しの道具等、元々数に入っていないんですよ!!」
その言葉を聞いて、私の中で何かが弾けた。
最低だ、と口にするよりも先に
湧き上がる熱に意識を集中させる。
ジェイを助ける為のブレスではなく、相手を焼き殺す為の詠唱を口にした。
だがそんなものも、男の前では無駄に終わる。
「っい、つぅっ…!」
男が手を離し、片手が解放されたかと思えば
今度は物凄い勢いで首を掴まれ、そのまま地面へ押し倒された。
息が出来ずヒクリと声を上げたと同時、背中を襲う激痛にジワリと涙が滲む。
皺くちゃな手がググ、と力を入れると言葉にならない声が絞まる喉を通り溢れ出した。
「あまり言う事を聞かない貴女には
そこにいるジェイのように一から全てを教えないといけませんねえ!?」
そう言って狂った笑顔を浮かべる男は涙に滲む景色に溶け、ぼやけている。
ああ、このまま景色に溶けて消えてしまえば良い。
だけどそれは決して有り得ない事だ。
「頬が痛いんだよ…お前に殴られた頬がよォ!?
同じ事をしてやろうか?それとももっと痛い目に遭うか!?」
男が更にと力を入れれば、私の意識は暗闇の中へと引き摺り込まれる。
意識を失いそう、と思えば男は力を加減し、再びこの世界へ引き戻す。
ハァ、と大きく息を吸うとまた力を強めて、私に苦痛を与えて、また緩めて。
何度も続く拷問にも似た行為に、私はただ苦痛の声を漏らす事しか出来なかった。
「っあ…ハァッ…!!」
「私を嘘吐き扱いする奴には、どんなお仕置きをしましょうか…!?」
クッと喉の奥で笑う男は今まで見た事ない程興奮していた。
人を苦しめて悦びを感じるなんて、一生かかっても理解出来る事はないだろう。
「さん…!」
動かすだけで痛いだろう唇で私の名を紡ぐジェイは
地を這うようにこちらに近付き、手を伸ばした。
その姿を見た男の手から一瞬だけ力が抜ける。
そして荒く息を吐く私に視線を戻すと、クスリと笑った。
「あぁ、そうだ…良い事を思いついた」
「昔ジェイにやっていた事と、同じ事をしましょう」
グ、と再び首を絞める手に力を込めたと共に
男は片方の手を私の衣服に潜らせた。
冷たい指の動きがリアルで、体が強張る。
ガサゴソと何かを探るよう動くその感触に、私の恐怖が募った。
「無能な人間は大切なものを懐に置きたがる…そうでしょう?さん…」
初めて名前を呼ばれた。
それがひどく気持ち悪かった。
こんなにも嫌悪感を抱いているのに、抵抗する事も出来ない。
早く、早く終われば良い。
それだけを思い目をぎゅうっと瞑っていると
自らに掛かる影がスッとどいた気がした。
そして、恐る恐る開いた私の瞳には
映ってはいけないものが映っていたんだ。
「そ、れ…」
男が掲げる手の中のものに、私の鼓動は早くなる。
五月蠅くて、騒がしくて、破裂しそうな程痛く鳴った。
「おや、予想的中ですか?たった一枚の紙切れが宝物とは…鈴よりも価値がない」
紐を持ち、男はユラユラと揺れる紙を覗きこむように見つめる。
「…え、せ…」
それだけは、絶対に渡さない。
皆が作ってくれた、大事な―――…
「…し、てよッ…!」
…―――私が、この世界にいる事を許してくれるたった一つの宝物。
「ック…フフフ…アハハハハハハッ!!」
もう、どんなに笑われても良かった。
どんなに無様だと、どんなに滑稽だと言われても
我武者羅になってでも取り返したいものなんだ。
「何だこれは!笑わせてくれる!!」
男が肩を揺らして笑う度
私の伸ばした手から逃げるよう証明書が揺れる。
「破壊の少女ではなく陸の民?お前がか!?」
「や、め…!」
「散々人殺しをしてきたお前が!!」
「ッ返せ!!」
何度も手を伸ばす私の体を押さえる男は
この上なく面白いと言わんばかりにその口を吊り上げる。
「お願いします、の一言も言えないようじゃ
ジェイに与えた罰など効果はなさそうですねえ…」
伸ばした手が弾かれ、手首を掴まれ床に叩きつけられる。
あと少し、指先が触れそうだった物が遠く離れていく。
「あぁ、そうだ…私が預かっておく必要などないんだ」
「こんな物、ジェイと同じ人殺しの貴女には全く持って必要ないでしょう!?」
驚き見開かれた私の目に映ったものは、余りにも残酷な現実だった。
「……う、…」
私の手首を押さえていた男の手が離れ
腕を自由に動かす事が出来るようになった、その一瞬。
一瞬のスピードで、私の世界はガラリと変わった。
「は…ァ…」
何かを破く音が何度も耳を劈いて、
男がパッと手を開いた瞬間、ヒラリヒラリと、花びらのようにそれは舞う。
花びらに例えるには醜く、とても安っぽい。
正確には、ビリビリに破かれたただの紙片だ。
もう読む事も不可能な程切り刻まれた、ただのゴミ。
「…ぁ、あ…ッ」
興奮し見開かれた男の瞳の中には
ガタガタと揺れて人の言葉とは思えない声を発する私がいる。
信じたくなかった。
夢なんだと、思いたかった。
男は、私がこの世界で生きる意味さえ奪っていった。
最後の一切れが地面についた瞬間、
“あの葉が全て散ったら私の命の灯火も消えるの”と何処ぞのドラマにありそうな
在り来たりな事も考える事が出来ず。
本当に壊れたかのように、ただただ叫んだ。
「いやアアァッ!!」
「街の中ではそれを首から掛けておけ。
お前に暴力を振るう者が現れても、一枚の紙で相手を罰する事が出来るんだ」
「現実だよ。お前はこの世界の人間だ」
「絶対なくさない!肌身離さず持ってる!皆がくれた物だから、ちゃんと大切にする!」
「えせ…!返して…!」
溢れる涙を振り撒いて
私はただただ、笑う男に向かって一つの単語を永遠と繰り返す。
「返せ…返して…!!」
「戻して…返し、て…ッ!!」
「っ返してよぉ…ッ!!」
男はそんな私を見て「今更遅い」と笑い、散り散りになった紙片を汚い靴で踏みにじる。
何よりも、大事だった。
皆が私の為に作ってくれたもの。
皆が私にくれた、優しい気持ち。
私はそんな、何よりも大事にしなきゃいけないものを
いとも簡単に失くしてしまったんだ。
「アハハハハハ!!
無様な姿ですねぇ!たった一つのものに執着する人間の姿は!!」
無理だと分かっていても、床に散らばったそれを必死に掻き集め
パズルのピースのように、一つ一つ並べる。
だけどこの世界の文字を知らない無学な私は
ピースが合っているのか間違っているのかも分からなった。
穴が空く程毎日見ていた証明書なのに何も思い出せない。
そんな薄情な私に、奇跡等起きる訳がなかった。
「して……てよっ…」
ボタ、と落ちた涙が紙に書かれた文字を滲ませる。
それが嫌なのに止まらなくて、紙が縒れていくのを私はどうする事も出来ず見つめていた。
「さん…」
ジェイが、私の名前を呼んでいる。
とても静かな彼の声が、酷く怒りに満ちているように聞こえた。
「…おすからッ……直す、から…!」
人からもらったものをそんなにして、と責められている気がして
私は言い訳のようにまた言葉を繰り返す。
ジェイはそんな私を見て何を想っただろうか。
きっと、目の前の男と同じで醜いと思っているに違いない。
私が自分で何とかしなきゃ、その想いとは裏腹に
男は私の手から溢れた紙片を再び踏み潰し、捻る。
「あぁ、可哀想に…なんて可哀想なんだ…」
悲観に暮れる男の声を、私は何と勘違いしたのだろうか。
醜い私を憐れむその声は、とても神々しく、温かく聞こえた。
「仲間との絆が壊れてしまった?仲間の想いを踏み躙った?」
「っ…」
「それは違いますよ…元々壊れやすい、脆い絆だっただけ…」
「軽く力を入れれば壊れてしまうような絆を
今まで信じていた自分が馬鹿だとは思いませんか?」
欠けたピースを握り締める手の震えが止まった。
あんなに溢れていた涙も、嗚咽も、全て。
「貴女は仲間だとは思われていないのですよ」
「…わ、たし」
「何故って?こんな紙切れ一枚に想いを込める仲間ですよ?」
「…」
「それが貴女の言う本当の仲間ですか?いいえ違う!」
「そこにいるジェイだって、本当に貴女の事を想っていたなら
這いずってでも私を止めたでしょうに!!」
ぼやけた視界をゆっくりと持ち上げれば
驚き目を見開くジェイの姿が映った。
「今この瞬間も、自分一人で助かろうと頭の回転を早くしているかもしれませんよ?」
「違う…そんな訳ない…!そいつの言葉に耳を傾けないで下さい、さ…!」
「そんな訳ない?いいえ、それこそそんな訳がない!!」
「ならば何故私が彼女の物を奪った時に止めに来なかった!?」
「何故体を伏せ黙視していた!?」
ソウナノ?
ソウダヨ…。
…ジェイは、どうして。
ドウシテ、ジェイハ。
「ああ、可哀想な破壊の少女よ…私ならそんな事は絶対にしない…」
ゆっくりと私の前で体を屈めた男は、慈悲深い笑みを浮かべていた。
優しくて、温かくて…甘い香りにとろけそう。
「貴女が私を裏切らない限り、私は貴女を裏切らない。
共に手を取りこの醜い世界を終焉へと導きましょう」
「そうすれば、貴女にこんな軽い友情を押し付けた奴等も
貴女を傷付けた者も、何もかもが壊せる」
まるで、魔法の言葉みたいだった。
希望の光を見つけた私の胸がトクン、と鳴る。
恋をする時のような、優しい音。
「さぁ…再び私の手を―――…破壊の少女」
こんな私にも、手を伸ばしてくれる人がいる。
もう、裏切られる事もない…。
…―――あぁ、やっと分かってくれたのね…。
…―――そうだよ、この方はとても優しくて、とても美しい方なの…。
…―――その手をとっても大丈夫…ねえ、大丈夫だから、わたしをダシテ…。
「さん…!さん!」
もう、誰が何処にいるのかも分からない。
遠くにいるのか近くにいるのか、それがジェイなのか、仲間なのか。
…違う、仲間なんていない。
私にはそんな人、今まで一度も。
「さんッ!!」
ボロボロのジェイを見て、ああ、なんて脆いのだろうと目を細めた。
必死に体を起こし、よろけながら私へと近付くジェイの姿は
助けを求めるのには、とても小さく弱い光だ。
「…コ、ッチ…」
重なった声は、誰の物だろう。
加工されたみたいにブレて、歪んでいる私の声。
スッと、音もなく手を伸ばす私を見て、男はニヤリと笑った。
それでも、コイツなら…この人ならきっと、と期待してしまうのはどうしてだろう。
「ッ駄目だ…さん…!」
どうして駄目なの?
駄目な事なんて、一つもない。
この手を取っても誰も悲しまない。
皆も、私も…破壊の少女も幸せになれる。
「そう、良い子だ…私の元へと…」
男が浮かべる笑みの真意も分からず、私は更にと手を伸ばす。
迷いはもう、きっと、なかった。
カサ、と膝に何かが当たる。
…もう、嫌だ。
私の為にと作ってくれた証明書も、そこに込められていた仲間との薄っぺらい友情も。
そんなもの…宝物だなんて思いたくない。
「ッ!!」
モウ、誰ガ呼ンダノカモ、ワカラナイ。
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修正:14/01/14