「ッ!!」
叫ぶ僕を盗み見た瞳は、
暗闇よりも深く、死んだ魚の目のように虚ろであった。
「フハ、ハハハハッ…!人間は弱い、弱すぎる…!!どうしてこんなに脆いのか!」
手と手が触れる前に男…ソロンは我慢しきれず声を上げた。
自らが欲していた物が手に入る寸前の余裕だろう。
二人の仲が成立する前にと、僕は痺れる足を必死に動かした。
だけど、走り手を伸ばした所でこの距離が縮まる事はない。
「…てくれ…」
後数センチ、もう二人の間に距離はない。
彼女と出会ってから今まで、長い月日をかけても僕が出来なかった事を
ソロンはいとも容易く成し遂げようとしているのだ。
「止めてくれッ…お願いだ!!」
それでも、僕が叫んで何かが変わるのならば。
もう一度、彼女の瞳に光を宿して欲しかった。
「ジェイ!!」
何処からともなく聞こえた声に溢れそうになっていた涙が止まる。
声の正体は振り返らずとも分かった。
物心ついた時から僕の名前を呼んでくれていた、あの声だ。
何事かと顔を上げた男目掛けて小石が飛ぶ。
男はさんを庇うよう彼女を包み、服の袖で小石を払うと
何事もなかったかのような冷静な瞳で辺りを見渡した。
「ソロン、そこまでキュ!」
そう言って僕の目の前に姿を現したのは
小石を飛ばした張本人、キュッポだった。
「ジェイはピッポ達の家族だキュ!」
「家族をいじめるお前を、絶対に許さないキュ!!」
そしてキュッポがいると言う事は、ほぼ必然的にこの二人もいる。
「…三人とも、どうしてっ…」
嬉しい、と思うよりも動揺の方が大きかった。
誰かが助けて来てくれるなんて思ってもいなかった。
こんなにも惨めで、道を誤る自分を信じてくれる人等、誰もいないと思っていたんだ。
「キュッポ達だけじゃないキュ」
「モフモフ族全員で、ジェイを助けに来たキュ!」
それでもキュッポ達は僕を助けに来たと言ってくれる。
散々迷惑を掛けた僕の為に、数少ない情報を集め駆けつけてくれる。
「それが家族と言うものだキュ!!」
震える僕を笑いもしない。
庇うよう僕の正面に立ち、小さな両手を広げるその姿に
ただただ唇を噛み締め涙を堪えた。
「ラッコが泣かせてくれる…ッ!」
殺意を剥き出した琥珀色の瞳を見、体が強張る。
脳裏を過ったのは、自分が幼少期受けていた暴行の日々。
自ら危険に飛び込むキュッポ達の背中に、僕は「ダメだ」と言う。
それでもキュッポ達は自分達の意志を曲げるような事はしなかった。
「二人は逃げるキュ!」
「ここはピッポ達に任せるキュ!!」
小さな手を懸命に動かし、キュッポはソロンの足止めを開始する。
見た目とは裏腹、それなりのダメージがあるキュッポの拳に怯み
ソロンの腕からさんの体がスルリと落ちた。
無気力状態の彼女をピッポとポッポが引っ張り、呆然とする僕の元まで運んで来る。
「ジェイ、早く!」
僕の胸に死人のように冷たい少女押し付けて二人は笑った。
「でもっ…それじゃ皆が…!」
ボロボロの僕がこんな事を言うのもおかしいが
どうしても言わずにはいられなかった。
ピッポとポッポは僕が次の言葉を紡ぐ前に
小さく首を横に振り、真っ直ぐな瞳を向けてくる。
そのつぶらな瞳に、複雑な表情を浮かべる僕の姿が映った。
「キュッポ達は大丈夫だキュ!安心するキュ!」
「だけど相手は殺しのプロだ…!皆が集まったってどうこうなるような奴じゃ…!!」
「ジェイ」
まるで子を叱るような、宥めるような声だった。
こんなに心地良い音色は今まで聞いた事がない。
…いや、違う。
皆はいつだって、僕の名前をこうして呼んでくれていた。
それを心の何処かで拒絶していたのは僕だ。
皆の優しさを真っ直ぐに受け止める事も出来ず、聞こえぬふりをしていたんだ。
「ジェイが助けなきゃいけないのは、ポッポ達じゃないキュ」
「…」
「ジェイが今、助けなきゃいけないのは―――…」
「…―――自分と、さんだキュ」
そう言って、トン、と僕の体を押したポッポの手のぬくもりに
止まっていた何かが溢れだしそうになる。
「…ッ…」
悔しくて悔しくて堪らなかった。
僕が弱いから、僕が不甲斐無いから、皆がこんな苦労をしている。
気が付いたらその小さな体をぎゅっと強く強く抱き締めていた。
「すぐ…戻るからッ…!」
キュ、と苦しそうな声を漏らした二人は僕の言葉にこくんと頷いた。
そして「信じてるキュ」と言って裏のない笑顔を見せてくれる。
今度こそ、この笑顔を信じようと誓った。
一向に動こうとしない無気力なさんの腕を引っ張り
僕はその場から逃げるように走り出す。
「ラッコが調子に乗るなよ!?」
そう言った男の体から大量の霧が溢れ出した事も知らず
ただただ出口を目指し、必死に足を動かした。
軽快とは言い難い足の動きと荒れる呼吸。
足を動かす事すら限界に近い。
思った以上に出血が酷いのか、頭がクラクラする。
それでも、ここから脱出しなければいけなかった。
急いで、皆さんの所に戻るんだ。
あの人達なら、きっと、僕達を―――…。
「…て…」
ぐるぐると同じ事を考えてひたすら走る僕の思考を止めたのは
雨音よりも小さな、息が漏れるような音だった。
「え…?」
恐らくそれは、後ろにいるさんの声だろう。
風の音が邪魔で聞き取れず、僕は一度足を止める。
その瞬間、僕の頬を掠めた彼女の爪が皮膚を裂いた。
「離してよッ…!」
僕が聞いた事もないような声を上げたさんは
威嚇するように歯を食い縛り、その瞳に怒気を混ぜる。
今のさんは、一体どっちなのだろう。
そんな事、考えなくとも答えは分かった。
「私は、こっちの人間じゃない…人間じゃないッ…!!」
睨む瞳に涙を溜め、嗚咽の代わりに罵声を吐く。
どんな形であれ、虚ろな瞳に光が戻ったとホッとしたのも束の間
さんは狂ったように声を荒げ続けた。
「何で…何で助けたんだよ…!?あのまま一人で逃げてれば良かったのに…!」
僕を責める言葉ではない。
きっと、僕の身を案じているんだ。
「逃げたって無駄なんだよ…!あの子がいる限り、私はアイツに勝てない…!」
「どうせまた、裏切るんだよ…!?」
本当はこんな事、言いたくないのだろう。
「ッ優しくしないでよ!!誰の得にもならないんだから!!」
息を荒げ、肩を上下させるさんの言葉に
僕は何も言い返す事が出来なかった。
一つ、大きな風が僕等の頬を掠めたと同時
さんは緊張の糸を緩め、ついにはその頬から涙を流す。
そして、さっきの叫び等嘘のように、今度は消えてしまいそうなか細い声を漏らした。
「…っごめ…」
今にも崩れそうな体を震わせるさんは、ちっぽけな、ただの少女だった。
このちっぽけな少女が全人類の敵であるなんて、そんな訳がない。
「ん…ごめ、んなさっ…!」
ひくりひくりと嗚咽を漏らし、頻りに謝る彼女を
僕はただ見つめ、そして一つの疑問を口にした。
「どうして、謝るんですか…?」
さっきまで僕に罵声を吐いていた人が今度は泣いて謝罪をしている。
彼女が僕に何を求めているのか、分かろうとしても分かる事が出来なかった。
「わ、たし…あの紙、なくし…た…!」
嗚咽に混じり聞こえた声は、つい先程の出来事を思い出させる。
「皆が、私のためにくれた、のに…!」
「もう、嫌な想いしなくて良いように…陸の民にしてくれたのに…!!」
さんはソロンの言葉に惑わされていた訳ではなかった。
皆が好きだと笑っていた少女があんな裏切り方をするはずがない。
…裏切る事が出来ないから、相手の元へ行こうとしたんだ。
皆の安全を確保する為、絆を壊した責任を果たす為に。
「…」
さんが涙を流した時、駆け付けてくれる仲間はたくさんいた。
だから僕は遠くでずっと見ていた。
泣いている彼女を励ますのは、僕じゃなくて他の皆の役目だったから。
だけど、今は皆いない。
僕とさんの、二人だけ。
泣く彼女をどう慰めて良いか分からない。
皆を真似て頭を撫でようにも手が動かず、声を掛けようにも音が出ない。
何も出来ず突っ立っていれば、グッと服を掴まれた。
驚き目を見開く僕の前には
涙で真っ赤になった瞳を真っ直ぐに向けるさんの姿がある。
視界いっぱいに広がる彼女の顔を見て、僕の思考は余計混乱してしまった。
「ジェイッ…どうしよう、ジェイ…!」
「っ…」
「イ…ジェイ…ッ…!」
涙を流し、僕の名前を呼ぶ。
僕はそんな彼女を心の奥底で拒絶した。
頼むから、僕を頼りにするのは止めてくれ。
僕はどうしたらこの涙を止められるのか、分からない。
「ねえ…!」
そんな保身も、彼女が次に発した言葉で音を立て崩れていった。
こんなにも彼女が追い詰められていると分かったのは、次の言葉を聞いてからだ。
それまでは「また証明書作れるかな?」、と
能天気な事を言うとばかり思っていた僕には不意打ちだった。
「私が生きてる意味って…もうない…?」
ぐしゃぐしゃの笑顔を浮かべて問うたさんを見て
僕の口は自然と開き、乾ききった喉からガラガラの声が漏れ出す。
「どうして、そんな事…」
「そんな訳ない」、とすぐさま言う事が出来ない僕は本当に馬鹿だ。
本音でも嘘でも、口にしとけば彼女が救われるのに。
「だって、そうじゃん…!」
涙を止める事も出来ない癖に
彼女は唇の端を吊り上げ、懸命に笑う。
「ジェイには分からないだろうけど、もう限界…!」
「…」
「ッ辛いの…!あの子が、もう出てくる…!!」
そう言って僕の服を掴む手は酷く震えていて、真っ白になっていた。
「あの子が、暴れてる…!」
「こうやって声を上げてるだけでも、頭が痛い…!!」
「痛みで抑えていたのに、それだけじゃもう体が言う事聞かない…!」
「きっとジェイが私の体を押すだけで、足はアイツの方に動いて…!
ジェイが私に冷たく言えば、また人の心臓だって貫いて…!」
「ッ自分が人殺しなら、まだマシだよ!!」
「人殺しを飼ってる私の気持ちなんて、アンタに分からないだろ!?」
その時、やっと気付いた。
さんは何かが欲しくて僕の服を掴んでいるんじゃない。
彼女が、彼女の中にいる少女の欲望を抑えこんなに震えているんだ。
そして、その大きな目から溢れる涙が二人分だと言う事にも気付いてしまった。
「皆の事、裏切って…!皆からもらったもの、あんな簡単に壊して…!」
「…」
「こっちの世界にいる間は、ずっとこうやって耐えなきゃいけなくて…!」
ハァ、と荒い息を零したさんは何とも言えない複雑な表情をしていた。
笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。
幾つもの感情が重なり合って、きっと彼女自身自分の事が分からなくなっている。
「だったら、死んだ方が良い…!」
「…」
「アイツがいるこの世界から消えて“やっと自由だ”って笑える方が、全然マシだよッ…!!」
「私が今生きてる意味なんて、ない…ッ!!」
この人は、一体何を言っているんだろう。
僕の知っているさんはこんな人じゃない。
どんなに辛くても最後には笑って、明るい未来に心を弾ませる人だ。
なら、どうしてこんな風になってしまっているのか。
それはきっと、僕のせいだ。
もう、分からない。
彼女が一体僕に何を求めているのか。
分からないけど、唇がゆっくりと開き忘れていた呼吸を開始する。
「…生きてる意味なんて、後から何だって付け加えられる」
彼女の震える手がピタリと止まった。
本当に、僕がこんな事を言って良いのだろうか。
過去人を殺し、嘘を吐き、酷い事を散々し、のうのうと生きてきた僕が。
そんな問いかけに答えてくれたのは頬を掠める優しい風。
「良いのよ、ジェイちゃん」と風に紛れ聞こえた幻聴は
何処かで良く聞く、幼い女性の声だった。
「…生きる意味が何だって良いなら、少しでも希望の見える意味が欲しいならっ…」
僕の服を掴む彼女の手をぎゅっと包み
驚き見開かれた目に、僕の本当の気持ちをぶつけた。
どんなに醜くても、これが僕の“本当”だ。
「僕の為に生きて下さい…!」
慎重に選んだ言葉ではなく、胸の奥ずっと秘めていた気持ち。
「貴女が死んで、生きる意味を見失う者だっているんだ…!」
「ッ今ここに貴女がいてくれなきゃ、僕も生きている意味がない…!!」
無理矢理腕を引っ張り、小さな彼女の体を、小さな僕の体が包む。
「繋がっている証が欲しいなら、僕がまた作りますから…!」
強く強く抱き締めたのは、否定の言葉を聞きたくなかったから。
例え彼女が声を漏らしても、僕は聞こえていないふりをする。
「だからどうか、死にたいなんて言わないで下さい…!
僕が貴女を生かす存在に、なってみますから…!」
望むなら、紙切れなんかに込める事の出来ない程の溢れる想いを捧げよう。
仲間達のように、どんなに冷たくあしらっても最後には優しく抱き締めよう。
不器用であっても、その髪を優しく撫でで励ましの言葉を贈ろう。
「…う、ッ…!」
服がジワリと濡れる。
彼女の涙が、また溢れる。
そんな彼女の手を、僕は強く強く握ったまま歩みを再開させた。
長く長く続く道のりで、彼女はずっと泣いていた。
僕の名前を呼びながら、ずっと、ずっと泣いていた。
ああ、涙を止められない僕はやっぱり駄目な奴なんだ。
こんな自己中心的な想いをぶつけただけでは、彼女の涙が止まる訳ない。
なら、貴女が今求めているであろう仲間達の元へ連れて行こう。
貴女が笑うなら、笑わせるのが僕じゃなくても良い。
嗚咽に混じる「ありがとう」の言葉は風に流され僕の耳には届かず
ただ罪悪感と後悔と、強い想いの混じり合う体でひたすら走った。
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修正:14/01/15