グリューネさんの言葉を聞かずとも、この霧が何処を目指し飛んでいるかは分かっていた。
だから俺は必死に、自らから溢れた感情を掴もうとこの腕を伸ばしたんだ。
形を持たない霧にとって、俺の行動は無意味だ。
どうしようもない無力感に襲われ、膝から崩れ落ちそうになる。
「…そ、ん…な…」
もう、誰が何を言ったのかも分からない。
「嘘、だろ…?」
もしかしたら俺自身の声かもしれないし、仲間達の声かもしれない。
ただ絶望を前に、何もかもが遠くに聞こえた。
「嘘ではありません」
それでも、グリューネさんの声だけは遮る事が出来ない。
ゾクリ、と体が震えればまた霧が溢れる。
これがの毒となると分かっていても、止める事は出来なかった。
「じゃあ、何故今まで彼女は平然として…」
俺と同じ、ジェイの震えた声が静寂の中に響く。
「…彼女は、自分自身が滅びの道へと向かっているのを分かっていました」
俺達の前で、あんなに笑っていたのに?
「汚染され、霧を吸い込む事に感じる吐き気や痛み…
あなた方もその異常に一度は気付いていたでしょう」
そうだ、俺達は知っていた。
だけどがいつものように「大丈夫」と笑うから。
…いいや、これは甘えだ。
本当に彼女が心配なら、相手がどんなに迷惑がっても強く言っておくべきだった。
「彼女が霧に汚染されない体を手に入れたのは、シュヴァルツと出会ってから」
それがいつなのか、俺達は知らない。
は教えてくれなかった。
いつ、そんな事をしてたんだ。
いつ、俺達から離れてしまったんだ。
「霧を吸い込む度に体が壊れる感覚…いつか汚染される恐怖…
それ等から彼女を一時的に救う唯一の方法…」
何で、何で…。
「破壊の少女が宿る自分の体を傷付けぬ代わりに
霧の影響を受けぬ力をシュヴァルツから授かっていたのです」
どうして、こうなる前に。
「彼女は、シュヴァルツに頼る事でこの地に命を留めていたのですよ」
シュヴァルツよりも先に、俺達を頼ってくれなかったんだよ…。
「ですがそれも、もう意味のない事…」
グリューネさんは俺達の気持ちと同様、悲しみに満ちた声で言葉を奏でる。
「彼女を霧から守る力は、シュヴァルツが与えた物です」
「…」
「シュヴァルツをこの世界から葬れば、同時にその力も消えてしまう…」
混乱した頭でも、グリューネさんの言葉はすんなりと入ってくる。
したくない、と望んでも脳が勝手に理解してしまう。
「そして…シュヴァルツは既に彼女を一度殺している」
「それが意図する所は、彼女がシュヴァルツにとって不要になったと言う事」
「破壊の少女を脅しの道具として使えなくなった今、残る道はただ体が腐るのを待つだけ…」
透き通った女の声が、とても煩わしい。
不協和音みたいにガンガン響いて、何重にもなって聞こえてくる。
「あなた方がシュヴァルツを倒せば、シュヴァルツは消滅し、彼女を守っていた力は消える」
「あなた方が行動せずとも、わたくしがシュヴァルツを葬ればそれは同じ事…
ですがその僅かな時間、彼女と行動を共にする事が出来る」
「…最も、彼女には既に自分の体を守る力はありません。
魂が戻っても、いつまでこの世界で生きられるか…」
無意識に嗚咽が漏れた。
飲み込むよう歯を食い縛れば、柔らかい唇から血が溢れ鉄の味が広がった。
拒絶の声を上げる事も出来ず、ただただ沈黙が流れる。
「今まで吸い込んだ霧の量からすれば一週間…三日…いえ、一日もてば良い方です」
カツ、と乾いた音が響く。
誰が立てた音なのかは考えなくても分かった。
「あなた方が為すべき事は、彼女が再び目を覚ますまで共にいる事。
そして目を覚ましたのなら、僅かな時間を彼女の笑顔の為に使いなさい」
「それが全てを知ったあなた方の使命であり、彼女を守れなかった事への罪滅ぼしとなるでしょう」
そう言ってグリューネさんは再び扉に手を掛ける。
ギシリ、と踏み締め撓る木板は俺達の心境を表してるかのようだった。
心臓が痛い。
今にも壊れてしまいそうな程忙しなく動き、脈打っている。
五月蠅い、黙れ。
そう願っても全く静かにならなかった。
「…一日だけ、待ってくれ……」
お願いだ、と自らの気持ちを落ち着けようとしたその時
思ってもいない言葉が口から零れた。
今この場を客観視出来る人物がいるとすれば
俺の行動を“悪足掻き”と言うだろう。
「頼む…俺達に、一日だけ時間をくれ……」
シュヴァルツを倒そうと踏み出したグリューネさんの足が止まった。
俺はそんな彼女の反応すらまともにみれず、震える拳を握り締める事しか出来ない。
「…刻一刻と破滅の時が迫っているのです。時間を無駄には出来ません」
「一日で良い…一日で良いんだッ……」
「その一日で世界が滅んでしまったら、貴方はどう責任を取るつもりですか?」
「……」
「悠長な時を過ごしている暇はないのです」
「無理についてこい等、私は初めから頼んでいません」
「あなた方の心の整理に付き合わされる義理はないのですよ」
グリューネさんの言う事は全部理解出来ている。
それでも、この信念を曲げる訳にはいかなかった。
「頼む…待ってくれ…」
グリューネさんの瞳に映る俺は、良い顔をしていなかった。
まるで昔、ウィルに『手負いの獣』だと言われた時のようだった。
「っ…じゃないと俺は、ここでグリューネさんを殺す…!!」
そして仲間に対し、酷い言葉を口にする。
頭の中では分かっているんだ。
グリューネさんが言う事は、全て正しいのだと。
それでも、今グリューネさんがしようとしている事は
の未来を閉ざす事に繋がる。
世界を守る為には仕方がない事だとしても
グリューネさんは大切な人の命を奪おうとしているんだ。
それを納得し頷ける程、俺は大人じゃなかった。
「……」
グリューネさんは睨む俺に驚きもせず、ただただ黙り込む。
そして数秒の時を経て、その整った唇から溜め息を吐き、呆れるように言葉を紡いだ。
「…皆、同じ気持ちなのですね」
ハッと辺りを見渡せば
俺と同じ、鋭い瞳でグリューネさんを見つめる仲間達の姿があった。
拳を構え、今にも飛びかかりそうなワルター。
己の武器に手を伸ばすモーゼスとクロエ。
冷静に見えるジェイとウィルも、その表情に余裕はない。
皆気持ちは一つだった。
を守りたいと言う、至極単純な想いだ。
「…ここであなた方の相手をしても、この人数ではわたくしに勝ち目はありません」
多勢に無勢な状況に、グリューネさんは再び溜め息を吐く。
そして次に俺達を見つめたその瞳は
記憶を取り戻す前の、温かいグリューネさんの瞳に良く似ていた。
「シュヴァルツを倒す前にここで朽ち果てるか、あなた方に一日捧げるか…」
「後者を取るのが妥当でしょう」
いつの間にか、強く握り締めていた拳が徐々に緩む。
冷え切っていた拳にスゥッと血が流れていくのを感じた。
「あ…」
情けない声が漏れ、忘れかけていた呼吸を繰り返す。
膝から崩れ落ちそうな程、体を支えていた力が抜けていった。
「明日の時間、全てあなた方に差し上げます」
「ですが彼女が目覚めようが目覚めまいが、わたくしは明後日に此処を発ちます」
「あなた方に残された時間はたったの二十四時間…この事実は、決して忘れないで下さい」
安心しきった俺を見て、グリューネさんは目を細めそう言った。
そうだ。
これで解決した訳じゃない。
例え時間が延びた所で、状況が変わる訳ではない。
俺達は無力で、さて何をしようと考えた所で良い案は浮かばなかった。
「……」
グリューネさんは音も立てずにウィルの家を後にした。
沈黙が広がるの中、再び拳を強く握った。
ちっぽけな自分に怒りを覚え、悲しみに嘆く。
この感情がの命を奪うのだと分かっていても
止める事が出来ず、ただ祈る事しか出来なかった。
一瞬でも良い。
いつもみたいに笑ってくれるなら、他に何も望まない。
お願いだから、早く目を開けてくれ…。
Next→
吸い込む事によって霧を消していたのではなく
吸い込む事によって霧を体に蓄積させていた。
ただの人間が神様に力を借りていただけの事で
所詮人は人、神の力がなくなればどうする事も出来ずに滅びていくだけ。
たった一人でも、リスクを伴わずに
世界を救う力が手に入るだなんて上手い話、ある訳がないのです。”
修正:14/01/17