近く、遠い。
この男との距離はいつもそうだ。
それがいつもより顕著に感じたのは、きっとこの、薄い膜のせい。
「…どうした」
「や、どうでも良い事なんだけど」
「?」
何も言わない私が逆に変だと思ったのか。
ワルターはゆっくり振り向くと、私の次の言葉を待った。
「今日はこれなんだなあって、思っただけ」
「…これ?」
「うん。いつもは私の事無理にでも担いで連れてくじゃん」
そう言いながら自分の周りにある薄い膜を指差し
「別に良いんだけどね」と言い笑う。
ワルターも同じ事を思っているのだろう。
呆れたと言わんばかりに溜め息を吐き額を押さえる姿は、まるで何か嘆いているようだった。
「…どっちが良い」
「は?」
突然何を言い出すのかと、今度は私が目を丸くする番。
無風の空に、小鳥の囀りよりも小さな声がポツリと落ちる。
ワルターは理解の出来ていない私に苛立ちを隠しもせず、今度は大きな声を上げた。
「移動手段くらい、お前の好きにしろ」
ぶっきら棒な物言いは、恐らく照れている証拠だろう。
「何怒ってるの?」なんて聞くと余計機嫌が悪くなりそうだと考える。
その間、ワルターはただ黙って私を見つめ、返答を待っていた。
…こんな時でも、ワルターは絶対に忘れない。
自分が私の下に就いている、と言う事を。
どうでも良いよ、と何度繰り返してもそれだけは譲らない。
私の考えを尊重し、その為に自分が動く事を誇りに思っているのだ。
…最も、自分勝手な行動をした時は問答無用で止めてくるが。
「…このままで良いよ!」
本当はどっちでも良いのだが、それをそのまま伝えると
ワルターは私がどちらかを決めるまで待ち続けるだろう。
わざわざ重たい体を担いでもらうのも申し訳ないし
ワルターにとってどちらが負担になるかは分からないが
私は薄い膜の中で体を倒し、笑った。
私の答えに納得がいったのだろうか、ワルターは頷きうっすらと微笑む。
そして再び、目的地も分からない短い旅が始まった。
「着いたぞ」
緑の大地に青い空。
それ等を映し、キラキラと光を反射し揺れる波。
弾ける音を合図に私を囲んでいた力は消え、
支えをなくした体を力強くワルターが包む。
よろけた拍子に鼻を掠めた風は磯の香りを纏い、
ぼやけた視界でも鮮やかに映る赤い門に、私は驚きを隠せずにいた。
「…ここ…」
私はこの場所を、とても良く知っていた。
「水の民の里…」
波音に掻き消されそうな程の小さな声でそう言えば
ワルターはコクンと首を縦に振る。
「な、何でここ?」
「…お前が来たいって言ったのだろう」
「……いつ?」
「…あの男をここに置きに来た時だ」
それ、本当にいつの話?
何て、つい無意識の内に零れかけた言葉を空気と共にグッと飲み込んだ。
理解の遅い私にワルターが苛立ち始めているのが腕を通して伝わってくる。
これ以上何でどうしてと言い機嫌を悪くする訳にもいかない。
「…あの、男……」
だから私は、必死に過去の記憶を掻き集め
自分自身で彼の言葉を翻訳しようと努力した。
「じゃあもう一回ここに来ようよ!」
「…里に、か?」
「うん!私もちゃんと皆と和解したい!」
「ソロンを、置きに来た…?」
「テューラにも会ってないし、後ソロン迎えに来なきゃいけないしさ!」
「…あの時…?」
カチリ、とピースがはまった音が頭の中で軽やかに響く。
ワルターの顔を見る限り、恐らくこれが正解だ。
なのに何だろう…もやもやしたままで全然スッキリしない。
「…嘘でしょ?」
「何がだ」
「だってそれ、つい最近の話じゃな―――…」
「だからどうした」
「いや…だから……」
あんな小さな約束でも、覚えていたんだ。
なんて今のワルターに言える訳もなく
私はフッと視線を反らし、気まずい空気に頬を掻いた。
「で、でも何で今?」
「…」
「まだ全部終わってないよ?私、戦いが終わったらって意味で言ったのに…!」
「気が変わった」
「…は…?」
「俺の気が変わった、だから来た…それなら良いだろう?」
「…い、良いって…」
「そりゃ良いけど」と言葉を繋げ、私は頭を捻る。
何だか少し強引なのは、私の気のせいなのだろうか。
元々頑固な所はあるけど、こんな小さな事でムキになるのは珍しい。
「…そんなに里に来たかった?」
「…いや…」
「あ、そっか!ワルターにとっては故郷だよね!戦いの前に帰りたくなるのは当たり前か!」
「…そうではない」
「良いよ隠さなくて!色々恋しくなっちゃったんだ?」
そっぽを向く彼の顔を覗き込むように身を乗り出し
息つく間もなく言葉を続ける。
「私の事は放っておいて、好きな事しなよ!」
「おい、そんな事出来る訳―――…」
「まずは郷土料理?魚でも食べようか!ここ最近パンばっかだったから!」
「…お前…」
止まらない私の声を煩わしく感じたのか、ワルターは私の腕を強く掴む。
何も悪い事をしていないと言う自信のある私は
ワルターの手の力にも動じず「なに?」と蒼い瞳に向けて笑った。
一瞬見開かれた目がすぐに閉じ、はあ、と大きな溜め息が整った唇から溢れ出る。
どうしたの、ともう一度声を掛けようと口を開いた瞬間
ワルターは閉じた目をゆっくりと開け、そして柔らかく微笑んだ。
「お前が言うなら、もうそれで良い」
負けた、と言わんばかりのワルターの瞳はいつもと何も変わらない。
私はそれがとても嬉しくて、馬鹿みたいにはしゃいだ。
「じゃ、早速行こ!」
「着いた時とは随分態度が違うな」
「ワルターの為だから張り切っちゃうの!」
「……」
「照れた?」
「呆れた」
「残念!」
ケタケタ笑う私に対し、ワルターは再び溜め息を吐くと
体を支え直し、体勢を整えた後歩き出す。
「…そう言えば」
「?」
「私、まだワルターに歩けないって言ってないよね?」
「…」
「何で知ってるの?」
首を傾げる私を見て、ワルターは眉間に皺を寄せる。
「どうして」、と聞く私に対し、「どうしてそんな事を聞く」と言っているようだった。
「知っていなくてもこうする」
「?」
「お前の歩みに合わせるのは、俺にとって当たり前の事だろう」
私の予想は当たっていた。
ワルターにとって私の力になる事は息をするみたいに当たり前で
逆に私がその事に疑問を感じているのが気に食わないようだ。
きっと私が今ここで走り出せば、ワルターも追いかけてくれるだろう。
歩きたくない、と言えばこの場で座りただ傍にいてくれるだろう。
それが凄い事だって自覚がないのが、この男の凄い所だ。
私はただ「うん」と言い、幸せを噛み締める。
こんなにも身近に、こんなにも自分を想ってくれる人がいる。
きっとこれ以上の幸せはない、と。
暴動を起こしてから里に来るのは二回目だ。
一回目はソロンをこの里に置いて欲しい、と頼みに来た時。
あの時は確か、私がこの地に足を踏み入れた瞬間、住民の態度がガラリと変わったんだ。
「…」
そして今日が二回目。
恐らくまた同じ反応をされるだろうと思っていた私を
里の人達は良い意味で裏切ってくれた。
和やかな空気が一転したのは確かだが
慌ただしく私から逃げようとする者は誰一人としていない。
ギクシャクしているけど、自然でいようと言う気持ちが何となくだが伝わってくる。
母親が家事をする横で子供達が駆けっこをし
それを見守りながらも仕事に精を出す父親がいる。
そんな何気ない日常を私がいても続けてくれている。
怖いはずなのに、私の存在を否定せずに迎え入れる努力をしてくれているんだ。
「…何をニヤついてる」
「何か、嬉しくて」
「この空気がか…?」
「ぎこちなくても伝わるよ…変わろうとしてくれてる事」
「この世界が平和になって、またここに来た時には
皆が私の事を笑顔で迎えてくれる…何だか、そんな気がして」
嬉しい、と言う気持ちが先行し、言葉をまとめる事も出来ない。
ただ思っている事をパラパラと並べただけの私の言葉を
ワルターは頭の中で組み上げた後、「そうだな」と笑ってくれた。
「って、私の事は良いんだよ!早くお魚食べられそうな場所探そう!」
「…」
「ね、ワルター!」
「…あぁ」
気合いを入れ直す私とは逆に、全く覇気が感じられないワルターの返事。
「アンタの事だよ!」と空いている手で白い頬をパチンと叩く。
叩く、と言うよりは触る、の方が正しいかもしれない。
声には出さないが相当嫌だったのだろう。
ワルターは一瞬にしてその整った表情を崩し、私にはそれがとても面白く見え
ケタケタと片手でお腹を抱え笑う。
「…うそ」
ヒーヒー言う私の声は里全体に広まった。
馬鹿みたいにはしゃいで、そろそろ注意する人間が一人か二人出てくるだろうと言う時
思いがけない方向から、聞き慣れた声がする。
「…あ…貴女…」
ぼんやりした視界で確認出来る事と言えば
その声を上げた女性が金色の髪で蒼い服を着ている、と言う当たり前の事だけ。
それでも声は忘れていない。
私の事を“貴女”と言いながら良く怒鳴り、叱る、あの元気いっぱいな声だけは。
「、さ…」
「テューラ!!」
元気いっぱいに少女の名前を呼べば
少女の体が大きく跳ねたのが良く分かった。
「会いたかったよ!恋しかったよー!」
「な、何言ってるんですか…!止めて下さい!」
「そっちこそ何を今更!私とテューラの仲じゃん!」
「どんな仲ですか!」
再会を喜ぶ私の声と、私を拒絶するテューラの声がぶつかり
住民の中に耳を塞ぐ者がちらほら現れる。
それを一番近くで聞くワルターも、驚くぐらい眉を顰め顔を歪めていた。
テューラは私が一言発する度に一歩下がり、ジリジリと身構えながら距離を置く。
そんなテューラの行動が私にとっては不可解で、小首を傾げれば
テューラも私と同じような表情を浮かべ、ピタリと足を止めた。
「…だ、抱きついて来ないんですね」
「正確には抱きつきに行けない、だな」
「タックルなら出来るんだけどね!」
「……どう言う事ですか…?」
意味深は言葉の数々に、テューラの表情が徐々に変わる。
眉が下がり、目の色が変わり、悪い方向へと崩れていくのだ。
テューラのそんな顔を見たくない私は「気にしないで!」と手を横に振り笑顔を見せた。
ただ、どうも相手が悪い。
中途半端な事が大嫌いなテューラは事の真相を聞くまで一歩も引かない。
引かない所か一度後退した足で私へとにじり寄ってくる。
ああ、この積極的な態度が私達との友情にも反映されればと願いながらも
観念したかのように片手を上げ、テューラに事の経緯を説明した。
「…そうなんですか」
原因不明の足の硬直と視界の悪さを適当に説明すれば
テューラは複雑な表情をしながらも一つ頷く。
「もっと早く言ってくれればすぐに案内したのに…」
「どうして?」
「足が動かないって言うのに、ずっと立たせてる訳にもいかないでしょう?」
「うそ!?テューラ優しいー!」
「ち、違います…!通行の邪魔になるって意味ですよ!」
外で話すと迷惑が掛かる、とこの場所を提供してくれたのはテューラだ。
昔メルネスとしてシャーリィが使用していた部屋で
二人並んで腰掛け話す事が出来るなんて、本当に夢のよう。
しかも歩けないと言う私の言葉を信じ、更にテューラが気遣ってくれるのだ。
これ以上の喜びはそうそうないだろう。
ちなみにワルターは自らの欲望に従い、魚を探し何処かへ消えた。
だからこそ、こうしてテューラとの二人の時間を楽しんでいるのだ。
「でも、やっと抱きつく距離までこれた!」
「止めて下さい暑苦しい」
「今日はちょっと肌寒いから丁度良いよ!」
「貴女は薄着だけど私は充分着込んでますから」
「…そ」
何だかこの素っ気なさ、ジェイに似てる。
ジェイと違うとこと言えば、気持ちの変化が表に出るとこぐらい。
最近の子はどうしてこうも冷たいのか。
…特に、何故だか分からないけど私と言う人間に対して。
「…何か嫌な事、考えてますね?」
「は、え、いや、何も!」
「嘘吐き、貴女すぐ顔に出るんですもの」
フゥ、と溜め息を吐くと、テューラはギシリと音を立てベッドに深く腰掛ける。
ピン、と伸びていた背中が少しだけ丸まった。
いつもの外向けのテューラとは違う、リラックスした姿だ。
「あの…です、ね」
「んー?」
「…だ、抱きつかれるのが嫌とかじゃなくて」
「へ?」
「か…体の動かない貴女に、無理はさせれないから」
声は小さくて聞こえない。
「なに?」と耳を傾けたと同時、スッと伸びてきた手に体が強張った。
私の肩に掛かる金色の髪が頬に触れ、くすぐったくて目を細める。
フワリ、と甘い香りが鼻を掠め
キュ…、と弱々しくテューラは私を抱き締める。
暖かくて、まるで夢の中にいるみたいだ。
「最近、里に来ないから、心配…したんですよ」
耳元から聞こえる震えた声に、私は小さく息を呑む。
これが彼女の気持ちなら、私はどうするべきなのだろう。
やる事は一つだけ。
ただ抱き締め返す。
もう、ずっと前からこうしたいと願っていた。
「ありがとう」
「…来たら来たで、凄く五月蠅いから嫌なんですけど」
「ええ…どっちだよ」
「どっちも、ですかね」
冗談を交えクスリと笑ったテューラは
ほんの少し体を離し、今まで見た事もないくらいの優しい眼差しを私に向ける。
少しだけ、フェニモールと重なった。
私を受け入れてくれた時の、フェニモールの姿と。
優しい眼差しにつられ、私もゆっくりと微笑めば
テューラはハッと目を見開き、パッと勢いよく体を離す。
顔を真っ赤にし「わ、私」とワタワタする姿が余りにも可愛くて声を上げ笑えば
先程の弱々しい声とは逆に、耳鳴りがする程の大声が部屋に響いた。
「そんなに怒るとこっちも怒るよ!」、なんて言えば
「勝手にすれば?」と素っ気ない返事が返って来る。
沈黙が流れる中、大袈裟な程落ち込む私を見ると
テューラはプッと噴き出しお腹を抱えて笑った。
笑われているのに、これっぽっちも腹が立たない。
「…良いですね、こう言うの」
そう言って嘘偽りのない笑顔を見せてくれたテューラが傍にいる。
それが幸せすぎて、怒る気もなくなってしまうんだ。
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修正:14/01/18