「波の音が聞こえる」、
そう言ったセネルの言葉に「まさか」と否定する者はいなかった。
私にも聞こえる。
始めは微かにだったのに、近付くにつれ大きくなる波の音が。
そこには広大な大地が広がっていた。
私達がいた地上と同じ緑の色が延々と、遠くまで続いている。
また更に奥へと進んでいけば緑色の大地は徐々に薄くなり
砂浜特有の、乾いたクリーム色が私達の足元には広がった。
そして目の前には穏やかにゆったりと揺れる、大きな大きな蒼い海。
「…これは海、なのか…?」
「…間違いない、味は海水そのものだ」
何の躊躇もなく水面に指を付け、チロリと海水を舐めたセネルに
私は「さすがマリントルーパー」と心の中で呟いた。
「…どうしてこんな所に海が」
「とても穏やかだな…外の海とはまるで違う」
「心が落ち着くのう」
目を閉じて深呼吸をするクロエの横でモーゼスは穏やかな笑みを浮かべる。
目の前の光景に信じられないと首を振るジェイですら
海を眺める瞳は優しく、温かな色に満ちていた。
「みんな〜!」
ザァ…、と優しく波を打つ海に紛れ騒がしい声が聞こえた。
それと同時に私の隣にいるウィルからは大きな溜め息が漏れる。
「…ノーマ、お前はこの海を見て何とも思わんのか」
「感性が貧しいんじゃないんですか?」
「そんな事より!上!上見てみなよ!」
いつものノーマなら「感性が貧しい」とまで言われれば怒り暴れるはずなのに
今はその大きな目を更に大きくして、落ち着きなく両手を動かしている。
「上…?」
渋々と皆はノーマに従い上を向く。
そして広がる別世界に目を見開いた。
真相を知っていた私ですら、見た事のない光景に開いた口が塞がらない。
閉じた空はまるで大きなドームの中のようだった。
それも、完全なる私達の貸し切り状態。
「空が、閉じている…!?」
「…地下空間、と言う訳ですね。ここは灯台の遥か真下に当たる所でしょう」
ジェイは全てを把握したのか、淡々と言葉を零す。
その言葉にセネルは目を見開いて、もう一度視線を空へと向けた。
何だか、不思議な感じ。
空が天井になっていて、だけどその天井の下には雲がある。
暖かい太陽だってあるのに、これが偽物の空だなんて。
「どうやら、さんが押したスイッチはトラップではなかったようですね」
「あの塔が昇降装置というわけか」
「ええ」
ジェイの次に状況を理解したのはウィルだった。
「さん、分かっててスイッチを押したんですか?」
「分かってたらもっと安全な押し方してるよ…」
「…ごもっとも」
「そこまで馬鹿じゃない」、と頬を膨らます私にジェイは「どうだか」と溜め息を吐く。
む、と眉を顰める私の横で、ジェイはしらっとした表情で海を見ていた。
この温度差じゃ何だか反論するのも馬鹿みたいだ。
「……」
「…無言で背中を殴るの、止めてもらえます?」
「ちょっとした仕返し」
顔を顰めいかにも不機嫌です、と言った表情を浮かべるジェイに
何となく勝った気がして満足気に鼻を鳴らした。
だが、顔を顰め険しい表情をしているのはジェイだけではない。
「……」
黙り続けるセネルは、自らの右手を睨むようにじっと見つめている。
「クーリッジ、どうした?」
クロエもセネルの様子がおかしいと感じたのだろう。
近付き、顔を覗き込むクロエからセネルは一歩二歩距離を取り
その見つめていた拳で空を抉った。
「魔神拳!!」
瞬間、青い衝撃波が拳から溢れ
その閃光は反れる事なくぼうっと突っ立つモーゼスへと飛んでいく。
「ぎゃひぃ!」と言う叫び声を上げ砂浜に倒れるモーゼスを呆然と見つめる仲間達。
何故セネルがモーゼスを攻撃したのか、と責め立てる者はいない。
皆が驚いているのはそこではなく、『どうして爪術が撃てたのか』と言う所だ。
「何すんじゃいセの字!」
「すまん、出るとは思わなかった」
「爪術が使えるようになったのか!?」
「あたしも!あたしも試す〜!」
「私もー!インディグ―――…」
「待てい!わざわざそげな強いブレス使わんでもええじゃろ!」
各々武器を取り出し意気揚々と声を上げる姿を見て
モーゼスはこれでもかってくらい首と手を横に振った。
振りすぎて取れてしまいそうだと思うくらいの勢いだ。
「ファーストエイドー」
セネルの魔神拳を思いっきり喰らったお腹を摩りながら、私は癒しのブレスを気怠く唱えた。
ほわっと、力のない光ではあったが(多分私の唱え方に問題があったんだと思うけど)、
ゆっくりとお腹の腫れを治していく。
「…」
「使えた!」
ぽかんと口を開けるモーゼスに、私は笑みを向けて手を離す。
私の力が爪術と呼べるものかは曖昧だったが、この空間で使えると言う事に代わりはない。
その事に誰よりもホッとしているのは他の誰でもない私だ。
「は優しいのう」
肩に手を回され、優しい力が私をゆっくり引き付ける。
モーゼスはぽんぽんと、私を褒めながら軽く髪を撫でてくれる。
決して悪い気分はしなかった。
「見たかセの字!がワイの腹を撫でてくれたぞ!」
こう言う、意味の分からない自慢をする所以外は。
「よっしゃ!これでもう、カカシにでかいツラはさせん!!」
制止の声も聞かず奇声を上げて飛び出したモーゼスの背中に手を伸ばすも
気が付けばあっと言う間にその姿は遠くへと霞んでいた。
「…モーすけ、どこ行ったんだろ」
身動きの取れない状況になった私達は砂浜に座りモーゼスの帰りを待つ。
ザアア、と静かな波の音が私達の沈黙の間に心地良く染み入り
謎だらけの空間の中でも皆の気持ちを穏やかにしてくれた。
「あ、戻ってきた」
波に紛れ聞こえる足音に気付き私は塔の方を指差す。
そこには赤い髪を揺らしながらこっちに近付いてくるモーゼスの姿があった。
「おかえり、モーゼス」
「…ダメじゃ」
手を上げて挨拶をすればモーゼスは正面から柔らかい砂浜へと崩れ落ちる。
手をダラリと放り、まるで死人のように動かなくなった体。
力なく喋る姿は、相当カカシに痛めつけられた事を良く物語っていた。
「ワルター、モーゼスになんか恨みでもあるのかな?」
「よっぽど嫌われてるんですね」
「じゃかましいわ…」
ヘロヘロな声だったけどしっかりとジェイの皮肉に言い返す。
私はそんなモーゼスをからかうように笑った後、ゆっくりと手を翳した。
「キュア」
柔らかな光で傷を癒せばモーゼスは温泉に入ったみたいに
「極楽じゃ」と言ってふにゃりと笑った。
「で、どうだったんだ?」
「上に戻った途端、このザマじゃ…爪術も使えん」
重たい体を起こし、その場で胡坐を掻くモーゼスの言葉に
皆は自らの手を見つめ不思議そうに小首を傾げる。
そして誰もが確信した。
爪術が使えるのは、この地下空間のみだと言う事を。
「ま、ま〜でも、力が戻ったのは良い事だよね」
「全く使えないよりはましだ」
「俺達爪術士にとっては、この力こそが己の拠り所と言う面もあるからな」
気が付けば皆は輪になって座っていた。
いつの間にか雰囲気はガラリと変わっていて
地下空間と言う場は、これからの事を整理する会議場になっている。
「爪術って、あたしがあたしである証?って感じだからな〜」
「爪術が使えなくても、ノーマはノーマなのに?」
「爪術が使えたからこそ、今のあたしがあるわけかもよ?」
「…ノーマが難しい事言うと、何か寂しい」
「ちょっと〜それって“馬鹿”って言いたいわけ?」
肘で私の体を突くノーマは笑っていた。
ノーマは“爪術が使える”ってだけで元気を取り戻している。
…それ程皆にとっての爪術が大事なんだって、初めて知った。
「とりあえず、これまでの状況を整理してみましょうか」
そう言って話を進行するのは、いつものようにジェイの役目。
そしてそれに誰よりも素早く対応するのがウィルの役目だ。
託宣の儀式を経てシャーリィがメルネスになってしまった事。
メルネスとは「滄我の代行者」。
滄我の願い、“人類を粛清する事”を代わって果たそうとする者の事。
シャーリィが皆に向かい「滄我の恩恵を返せ」と言ったあの瞬間から爪術が使えなくなった。
それ等全てが何故起きてしまったか。
それを知る為にはまず、“滄我とは何か”を知る必要がある。
「…この地下空間を少し調べてみましょう」
そう言ったジェイの顔つきは、何処か険しい。
皆もただ黙って、眉を顰めながら頷いた。
きっと、次行く場所…火のモニュメントが見えたんだ。
「…」
でも、何で私には見えないのだろう。
ここにいる皆、全員に見えているはずなのに私一人には見えていない。
それは私が別世界の人間だから、と言う事ではなく。
「…歓迎、されてない…?」
私の小さな小さな声を掻き消す大きな波は
まるで真実を知るな、そう言っているようにすら感じた。
「ここでなら爪術が使える…この意味は大きいですよ」
「地下空間にはシャーリィの力が及ばない…そう言う事か?」
「或いは“ここだったら、滄我の恩恵を受けられる”です」
「いずれにせよ、何らかの突破口を見出せるかもしれません」、
そう言葉を続けたジェイは、この遥かな大地を見渡し目を細める。
勿論その意見について反論する者は誰一人としていなかった。
「よお〜し!んじゃ、早速レッツゴー!」
「偶然ここに来れて、良かったな」
張り切るノーマに、笑みを浮かべるクロエ。
「皆頑張ってるわねえ。お姉さん、応援しちゃうわあ」
そして、そんな二人の横で両手を組み
優しく、柔らかな笑みを浮かべるグリューネさん。
誰もが気付き、誰もが驚く。
突っ込むなら今しかない、と皆が顔を見合わせ溜め息を吐いた。
「誰ですが、グリューネさんを連れてきたのは」
「い〜加減付き合いも長いし、この際一緒でもい〜んじゃない?」
「戦闘要員でない人をずっと同行させるのは、いかがなものかと…」
グリューネさんに遠慮してかジェイは歯切れ悪く言葉を繋げる。
だがグリューネさんに対して言葉を選ぶと言う行為自体が意味を成さず
何を思いついたのかぽん、と手を叩くとグリューネさんは渋るジェイに満面の笑みを向けた。
「あらあ、だったらわたくしも皆と一緒に戦うわよお」
笑みを絶やす事なく、グリューネさんは懐から壺を取り出す。
そんな大きな壺何処から出してきたんだ、と言う突っ込みは敢えて入れない事にした。
「じゃあ、改めてよろしくね!グリューネさん!」
「よろしくねえ、ちゃん」
差し出した私の手を、グリューネさんの綺麗な手がきゅっと握る。
私もその力と同じぬくもりをグリューネさんへ返し、軽く上下に振って離した。
「これでいつもグリューネさんに抱きつけるー!」
「わたくしも、ちゃんとずっと一緒にいれるなんて嬉しいわあ」
さり気なく嬉しい事を言ってくれるグリューネさんに
私は“満面の笑み”と言う言葉を軽く超越し、言葉に表しきれない程の笑顔を浮かべた。
「それじゃ、行くぞ!」
気合の入ったセネルの声に、皆が皆強く頷き高々と拳を上げる。
「おー!」
一人大きな声を出す私にセネルはクスリと笑って
穏やかな海を背に、その足で大きな一歩を踏み出した。
皆が皆、その足で砂を蹴り
何処に何があるかも分からないこの空間で、足を進める。
「さん、ちょっと」
「?」
私もいざ!、と一歩前へ足を動かしたその時、制止の声に体が固まった。
「なに?」
「手」
「…手が、どうかした?」
「良いから」
鈍い反応を見せる私に痺れを切らしたのか
ジェイは半ば乱暴に私の手を引っ張り、捻る。
ジェイが何をしたいのか、何を思っているのかも分からない。
それでも私に危害を加える訳ではないし、ただ為すがままに従った。
「ジェイ、早くしないと置いてかれちゃうよ?」
「……そうですね」
ジェイはしばらくの沈黙を流した後、アッサリと私の手を離す。
それとほぼ同時、ノーマが私達を呼ぶ声が聞こえ
私は咄嗟に「今行く!」と返事をしジェイを置いて走り出した。
「…あの人、気付いてないのか?」
自分が治癒のブレスを使っても手に傷が付いていない事に。
あの人の力は爪術ではない。
試してはいないが、それこそ地上でもあの力ならば使えるはずだ。
僕達と違う、彼女がここに来て変わった事。
それはどんなブレスを使っても、その代償がなくなったと言う事。
「…偶然来れた…本当にそんな事が有り得るんでしょうか…」
もしそれが偶然ではなく、何かの力によって引き寄せられているのなら
真っ先に疑うべきは―――…。
「あーなんか泳ぎたくなってきちゃった!」
「突然何を言うかと思えばそんな事か」
「皆そう思ってるよ!ねー、セネル?」
「どうして俺に振る」
「だってセネル泳がないと欲求不満になるんでしょ?」
「どこの情報だよそれ…」
「…そんな訳ないか」
あんな馬鹿で阿呆でどうしようもない人がこの地下空間と関係ある訳ない。
むしろ、つい最近この世界に来た人が
大昔の灯台にある謎を知っているはずがないのだ。
風に靡く漆黒の髪から見え隠れする表情には何の疑いも嘘もない。
…だけど、何処か引っ掛かる。
何故僕達は大した根拠もない彼女の言葉を信じているのか。
何故疑う事を避けて通ってこれたのか。
いくら考えても答えが出ないと言う現実を直視したくなくて、
本能的に考える事を放棄していたのかもしれない。
だけど僕達は必ず知る必要がある。
…彼女が一体、何者なのかと言う事を。
Next→
...
修正:11/12/12